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下手な考え・・ アーカイブ

2006年08月19日

なぜ整頓すべきか

子どものころ、大人から「整理整頓をしなさい」と言われるのが納得いかなかった。

なぜ整理整頓するのかと聞くと大人たちは、「そのほうが気持ちがいいでしょ」と答えた。
何歩か譲って、気持ちがいいのは認めるとしても、整頓するのが面倒な気持ちと、整頓による気持ちよさを比較すると、前者の100戦100勝のような気がしたのだ。

いまのぼくの「整頓する意義」に対するとりあえずの答えは、整理整頓は身を守るためであるということだ。
山登りをしたり、知らない国へ出張に出かけるときには荷造りを慎重に行うが、そのように危険に備える意識で日々を生きる事が大事である。そうした危機意識の具体的な現われが、整理整頓という活動として現れてくるべきものである。

危機的な状況が訪れたときに、身の回りが整頓されていないと、自分にとって何が大事かがわからなくなり混乱する。
自分の人生を自分で切り開いていくためのサバイバルのスキルとしての整頓術を身に着けるのが大事だと、子ども時代の自分に言ってやりたいと思う。

・・えー、家の引越しの荷造りに呆然としながら、現実逃避気味にこんなことを考えました。という、トホホな落ちだということですが・・

2007年02月22日

reflectiveは反省的か内省的か

reflective practiceという言葉がある。
反省的実践、あるいは、内省的実践と訳されるとおもう。

反省的というのは、相手が正しくて自分が間違っていることを認めるようなニュアンスがある。
内省的というのは、ひきこもってブツブツひとりごとを言っているイメージがある。

reflective practiceというのは、たぶん、プラグマティズム的な概念で、行動した結果・影響を、感じ、考え、次の計画につなげ、行動を改善するというサイクリックな運動をいうのだとおもう。

この概念は、PDCAとも似ているけれど、ちまたのPDCAは、会社の上層部の思いつきによる不完全な計画を、現場に押し付ける際のレトリックに堕している傾向があって、あまり好きな言葉ではない。
自分の行動は自分で考えて、自分で責任を持つという前提がないと、意味がわからなくなってしまう。
(本当のPDCAはそういうものだろうが)

reflective practiceの訳として、何が適当なんだろうか。

2008年01月24日

アイデアは皇帝

年が明けて、ブログの更新頻度が落ちています。

怒とうの米国調査の整理もあり、国内での活動もあり。

自分自身の活動を含め、調停トレーニングばっかりが目に付きます。むしろ、実務、あるいはトレーニングと実務の接点が重要というのは確かにその通りだと思います。
しかし、その実務のほうが、いつ変わるかと言えば、やはりトレーニングなどを通じて、調停の活動の方向性を考え直したときなんでしょう。

実務に対するインパクトという意味では、レビン先生の『調停者ハンドブック』が出た直後に一つのピークを迎えたようですが、最近になってじわじわと新しい影響が広がっているように思います。
これを、ちょっとしたブームで終わらせず、社会の変革につながるような動きに育てることを祈っています。

米国のヒアリングをしていたときに、「アイデア(ものの考え方)こそ皇帝(一番大事)」と連呼していた教授がいました。スキルでも、手続でもなく、アイデアこそ。

2008年03月12日

スタッフアドバイザー

実務トラブル あなたなら…を読んでいておもしろいなぁとおもったのだけれど、大きいことを言い過ぎじゃない?正社員になりたがる派遣社員あたりで、2/3は厳重注意、1/3は無視ということらしいということを知り、世間の常識なるものの保守性を改めて考えてしまう。

派遣社員が自分をアピールしてはいけないのだろうか?

2008年03月22日

事例から学ぶ

メディエーションに少しでも取り組んでいる人がいたら、具体的な事例について(個人名は伏せて)教えてもらうように心がけている。

聞いていて感じることは、簡単な紛争というのは本当にないものだなということ。
と同時に、難しいからこそメディエーションというシンプルに当事者同士が話し合う方法が良いように思う。

先日、ある事例研究会に出席したのだけど、1つの事例から学べることは、控えめに見積もっても5つとか10個とかある感じだった。

事例から学べることを、例えばメディエーション教材に反映することは重要だ。
しかし、失敗例や成功例を単にマニュアルのこやしにするのは安易なことである。
厚いマニュアルをなぞるだけでメディエーションができるなら世話はない。

2008年06月25日

調停トレーニングは疲れる

オノ・ヨーコ(1990)『ただの私(あたし) 』(講談社文庫)を読んでいたら、ライブ前の一週間は断食をするという話が書いてあった。1週間断食というのは想像も付かないが、おそらく感受性を高めるためにそういうことをしているのだろう。

調停トレーニングはライブと違うものだが、事前には緊張するし、事後にはぐったりする。

調停トレーニングが疲れるのは、人の価値体系にゆさぶりをかけるような側面があるからだと思う。受講者には、受講者の歴史があり、体験がある。その常識にゆさぶりをかけられると、その反動が働くのは当然で、しばしば反感が講師に向けられるのは自然なことだ。
わたしがレビン先生のトレーニングを最初に受けたのは2004年だが、この頃から比べると、講師に対してあからさまな抵抗を示す人は減ってきているように思う。
ADR法ができて、「そもそも日本でADRなんて普及する余地があるのだろうか」という質問をする人が減った気がする。「そもそも日本でADRなんて」という疑問自体はちっとも解消していないにもかかわらず。

ただ、荒い理解しかしていないけれどなんとなくADRに対して好意的な人よりも、ADRの持つうさんくささに敏感に反応する人の方が、本当はADR運動にとっては必要かもしれないと、常々思っている。

ところで、先日、岡山弁護士会でトレーニングをさせていただいた時にはつくづく疲れた。しかし、それは、想定していた抵抗が出たからというよりも、想像以上に好意的に受け止められたが故に、その中でのまともで本質的ないくつかの質問に自分自身が納得できる答えができなかったからだった。

糧にしていこうとは思います。

2008年07月16日

ADRに関心がある人は気性が荒い、の法則

もちろんわたしもそうなのだが、これはかなりあてはまっているのではないだろうかと密かに思っている。
自分でももてあますほどの気性の荒さが、まわりとの軋轢であったり、自分自身への攻撃であったりに向かいがちなところを、なんとかうまく制御するため、技術や、空間や、手続があればよいと、意識的、無意識的に望んでいるからではないだろうか。という仮説。

非常に偉い人がADRに関心を向ける割合が高いのも、もともとそういう激しさというかエネルギーを建設的に向けていて、その部分と通じる何かを感じているからかもしれない。
(もちろん、逆は真ならずで、気性の荒さは偉さを保証するものではないし、ADRに関心があるからといって偉いわけでもない)

まったく論証困難な命題で、ただのたわごとですが。

2008年10月02日

調停トレーニングを短い言葉で紹介するのがなぜ難しいか

これは、動物園に行ったことがない人に、動物園というものを紹介するようなものだというたとえ話を思いついた。

現実問題として、動物園に連れて行かずに動物園を紹介しようとすれば、「さるがいて、ぞうがいて、きりんがいて・・」という話をするのか、あるいはリスを一匹連れてきて、こんなのがいますと言えばいいのか。

動物園そのものが、様々な制約がある中での自然界をモデル化しようという一つのアプローチだとすれば、常にそのモデル化の思想や方法が問われることになる。
したがって、その問いそのものは、正当なものであるけれども、モデルそのものも一つの現実であるとするならば、それを理解するにはそれなりの手続が必要であるはずだ。

つまり、動物園を理解したければ動物園に行かずに動物園に行った人の話を聞くよりも、動物園に行ってみてそれが何なのかを考えればよいのではないか。そのうえで、動物園ではなく、サファリパークを建築すべきと考えるか、ペットとしての動物とのつきあいだけにとどめるのがかえってよいと考えるか、家畜以外の動物に価値をみいださないのか、それぞれの立場で議論すればよいのではないかとおもう。

とはいえ、「よい動物園」を建設することに問題意識を持っているなら、「動物園とは何か」の説明を求められる場面があるはずで、「動物園に行ってください」以外の説明を誠実に尽くす義務があるだろう。

そこが難しい。

2008年10月09日

FAQ

調停やADRをなぜ研究しているか、また研修やなんかで話をしているのはどういうつもりか、と質問されることがある。

その質問にもいろいろな意図があるようなのだけれど、「確かに考え方はおもしろいところがあるかもしれないが、ビジネスとしてあるいは社会制度として定着する可能性について、本当にあなた自身が確信しているのか」というようなものがあるように思える。

その質問者の真意には、やってみたいけれど、もう少し背中を押して欲しいという気持ち(積極派)と、やる気はないけど本当においしいならもう少し考えてみてもよいよという気持ち(消極派)があるように思う。

これに対するわたしの答えは、「自分個人としてもおもしろいし、社会にとっても有用な考え方だと確信している。しかし、それがどのように定着するか、しないかについては完全な見通しを持っているわけではない。むしろ、手探りでいろいろやっている。すでにいろいろ誠実にやっておられる方、あるいはこれから取り組んでみたい人と連携しながら、少しずつできることを丁寧にやっていきたいと思っているし、現にそうやってある程度活動している。そのような状況であるから、無責任にだれかの背中を押すことはできないし、ましてや、やる気がない人を説得してやらせようというつもりもない。ご自身の取り組みを行うか、行わないかは、ご自身で考えていただきたい。そのうえで、何かやろうということになり、ご一緒できることがあれば、ぜひ声をかけていただきたい」というものだ。

まあ、こんなにすらすらと答えられないで、困った顔をしてつまってしまうこともある。
それはそれで、一つの何か真実を反映しているということなのだろう。

もちろん、すらすらと、正確に答えたとしても、「そんなことを聞きたくて質問したんじゃない」という顔をされてしまう。
質問者も残念そうな顔をしているのはわかるが、わたしも残念なのだ。
心地のよいインチキを言うわけにはいかないし、なによりこちらとしては同志を探しているので。

2008年10月19日

「お気持ちがわかります」は、傾聴ではない

メディエーションにおける傾聴スキルと、カウンセリングの傾聴スキルは概ね重なっているが、重要なところで異なっている。
一番大きな違いは、メディエーションは原則として3人で話し合うのに対して、カウンセリングは2人で話すところだろう。グループプロセスを勉強した方がよいというのはそのためである。
メディエーターが当事者の感情を理解して確認するという作業ができるというだけでなく、両当事者間で、相互の感情理解が進むように援助する仕事が必要になる。

ところで、「お気持ちがわかります」という表現は、共感(Empathy)を表すものとは認めがたい。「お気持ちがわかります」という表現の前提には、「わたしの認識枠組みで、あなた(の感情)を理解できている」という達成的な意味が含まれているが、共感(Empathy)とは、「あなたの認識枠組みを理解したいし、その上で、あなたの感情も理解したい」という希望を持った態度を意味している。

あなたを理解していますというセリフはプロポーズにならないが、あなたを理解したいという言葉は愛の始まりになるかもしれない。
この、「かもしれない」というところが、ミソである。

以下のブログ記事への応答として。
カウンセリングマニュアル - 犯罪被害者の法哲学

2008年11月17日

言論の自由の言葉づかい

日教組の”影響”と言論の自由について (内田樹の研究室)

「私も永遠の真理を知らず、あなたも知らない。だから、私たちはたぶんどちらも少しずつ間違っており、少しずつ正しい。だとすれば、私の間違いをあなたの正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうだろうか」というのが「言論の自由」が要求するもっとも基本的な「ことばづかい」であると私は考えている。
誤解している人が多いが、「言論の自由」に基づいて私たちが要求できるのは「真理を語る権利」ではなく、「間違ったことを言っても罰されない権利」である。
その権利の請求の前件は「私は間違ったことを言っている可能性がある」という一項に黒々と同意署名することである。
だから、「私は正しく、おまえは間違っている」という前提から出発する人は「言論の自由」の名において語る権利を請求できないだろうと私は思う。

メディエーションとの文脈で考えてもおもしろい一節である。

まず、「間違ったことをいっても罰せられない権利」について。

メディエーションで大切なのは、スキルよりもスタンスだと思う。
ここで書かれている「言論の自由」を厳密に、限定的に実現する場がメディエーションであるとおもう。

だからこそ、「間違ったことを言っても罰されない権利」の<例外>を、メディエーションの規約で考えるのは大切だろう。「秘密は守られます」だけでなく、「原則として秘密は守られますが、暴力その他の特別な場合には、メディエーション機関から適切な機関に連絡する場合があります」とすべきだろう。
どのタイミングでどのようにいうかという問題は残るが。

次に、「私は正しく、おまえは間違っている」という考え方について。

メディエーショントレーニングの目標は、「私は正しく、おまえは間違っている」という構えから、自由になる方法を獲得することだ。特に、なんらかの資格を持っていると、「私は正しく、おまえは間違っている」という立場に立ちたくなる。トレーニングは、そのための武装解除手続と言っても良いかもしれない。しかし、逆に、メディエーショントレーニングを受けた経験そのものが、「私は正しく、おまえは間違っている」という立場に立たせる原因になる危険もある。

わたしが、法的知識とメディエーションスキルを素朴に接合すれば足りるというモデルに対して感じる違和感はこのあたりだ。
「わたしは、法律家であるから正しく、メディエーションスキルがあるからますます正しい」と考える<構え>は、完全にずれていると思う。

2008年12月22日

Hang in there

とある研究者から、研究で大事なことは、あきらめないことだ、と、お聞きする。

hang in thereの語源は、ボクシングのクリンチ

2008年12月31日

2008年個人的ニュース

今年、印象的な活動をふりかえってみた。

・Jennifer Beerさんと加藤大典さんのワークショップ

・愛媛和解支援センター5周年記念シンポ開催

・1月の米国調査

・ADR事例研究本格化

・弁護士会仲裁センター・事例検討会への参加

・ハーバード交渉トレーニング参加

・認知行動療法の勉強

・対話シンポ@中京大学

・JILPT成果公表される

・調停トレーニング実施数増加

ちゃんと、研究をまとめよう。

2009年01月02日

2009年

あけましておめでとうございます

ことしも良い年でありますように。

今年の抱負。
1.研究を公表する。
2.メディエーターとしての活動を行う。
3.トレーニングの幅を拡げる。(対象参加者、扱う項目)

2009年02月12日

ADRは遅さが売り

昨日に続き、静岡県司法書士会の話。

静岡県司法書士会の”ふらっと”のマスコットキャラクター、Win-Winくんのぬいぐるみをいただいた。

もうすぐ6歳の次男大喜び。ということは、さておき。
このキャラクターはかたつむりが元になっているが、かたつむりという「遅さ」が売りになっているものをマスコットにしたというのはもしかしたら画期的かもしれない。

ADRの長所として、「早い、安い、うまい(満足度が高い)」などと言われることが多いが、実態はあまりさだかではない。
日本の場合、裁判所の調停が「安い」ので、士業団体のADRはどうしても「高く」見える。
期日を詰めて入れられるから早いという意味では、ある程度件数のある弁護士会ADRなどではそのとおりだ。
しかし、業界団体のADR手続なんかでは、開店休業が続いていることが少なくないから、申し立てて本当に「早く」期日を入れてもらえるかというと、それもかなり疑問だ。
むしろ団体から示談金の提示が「早く」出てきたりして・・それはそれで「早い」解決かもしれないが。

「早さ」と言ったときに、何日、あるいは何ヶ月で解決できるかという「早さ」の問題の他に、調停期日そのものを何時間位かけるかという意味の「早さ」の問題がある。

根本的な話として、紛争を抱えている当事者が、機械的な処理で「早く」答えを出して欲しいと思っているかどうかを考えなければならない。
二度と会いたくもない相手とであれば、客観的事実だけを提出して、自動的に答えが出てくる仕組みになればよい。保険会社がなにもかもやってくれる交通事故の示談あっせんはこれに近い。

しかし、いろいろ言いたいことがある、ごく普通の紛争では、むしろしっかり話し合いたいと思うのが普通だろう。相手の言い分など聞きたくないかもしれないが、自分の言い分は思う存分話したい、あるいは、相手を問い詰めたいとおもうのは自然な感情だろう。

うちは3分診療です、と、宣伝する医者がいないのと同様に、うちは流れ作業で紛争を処理しますと言って、お客さんが納得するとはあまり思えない。

2009年02月26日

アサーションとメディエーション

以下は、アサーティブジャパンの森田さんのトレーニングを受けて考えたこと。

アサーションは、はっきりと考えを伝える技術である。

浅薄なアサーショントレーニングだとそれだけになってしまうのかもしれない。

しかし、まともなアサーショントレーニングでは、自分の迷いにちゃんと向き合うことを重視する。
認知行動療法をルーツに持つのだから当然とは言える。

また、「権利」の考え方を重視する。
それ以上説明する必要がない出発点を設定するのは、原理的にだけでなく、実際的に有効な方法だと思った。

従って、まともなアサーションの議論では、相手がアサーティブであることを尊重する。
ここがアサーショントレーニングのなかでのまともさを見分ける鍵だとおもう。

ところで、このような理念や思考方法は、メディエーションとほとんど共通しているように思える。

また、アサーションも人と人の対等性を目指した一種の社会運動ということだが、そこもメディエーションと共通している。

違いとしては、①アサーションが二人の対面コミュニケーションを前提としているが、メディエーションの基本前提は三人以上で行う対面コミュニケーションを前提としていること、②制度とか手続的としての側面をメディエーションは持っているが、アサーションは持っていないところ。

2009年03月19日

メディエーショントレーニングをメディエーションの場とみなす

メディエーションの本物の事件よりもメディエーショントレーニングにばかり熱心だと揶揄されるような状況というのは、なにも、日本だけにあるのではなくて、アメリカでもあるようだ。この間のリンドさんの話だと、イギリスでも同じようだ。

メディエーショントレーニングを熱心に取り組む人が本物の事件に取り組むように成長することも大事だし、すでに事件を扱っている人たちが改めてメディエーショントレーニングに触れるのも大事なことだ。そのために、メディエーショントレーニング自身がそれに耐えるように進化する必要もあると思う。

ただ、メディエーションは、そのような「事件」だけを扱うものではない。日々是メディエーションである。たとえば、メディエーショントレーニングそのものをメディエーションの場と見なすこともできる。トレーニングに対して不信感を持って来る参加者達に、尊敬の態度を持って接し、その方自身が選び取る形で変容する機会をできるだけ誠実に提供する。・・言うのは簡単だが、やるのは大変で、何度やっても、これが最高ということにはなかなか至らない。

だから、わたしは、メディエーショントレーニングにトレーナーとして多くの人が取り組めるようにできないかと考えている。
まずいくつかメディエーショントレーニングを受講することは必要としても、そのあと、いつまでも受講者の立場に留まるより、トレーナーとしての経験を積むことが、メディエーターとしての能力開発に役に立つと思うからだ。
なにも長時間の正式なトレーニングだけがトレーナーの仕事ではない。数時間の簡単なイベントの企画でもよいとおもう。

・・といったことは機会をとらえて何度かしゃべっているつもりなのだが、実際にはなかなかそこまでやるのは大変なようだ。
わたしとしても、もうすこしメディエーショントレーニングがいろいろな場に拡がるようになにかできないかと考え中である。

2009年03月25日

裁判員制度に必要な第三極の議論

裁判員制度について、ある人と話をしていて、以下のようなことを考えた。

まず、裁判員制度について、裁判所は年間10億円以上の広報予算をかけてPRを行っている。
こちらの視点は、周知徹底がミッションである。ちょっと意地悪に見れば、「動員」を有効に行いたいということだ。

これに対して、裁判員制度の反対意見も強い。従来ならば、精緻な職業裁判官によって専門的に行われていた手続が、簡略化され、雑な手続にならざるを得ないという点を主に批判しているとおもう。

PRを有効に行おうとしているのが第一の立場であり、第二の立場は、第一の立場に反対している。
わたしが必要だと思う第三極とは、市民による司法参加は必要だが、そのためには必ずしも現在導入されようとしている手続が最高であるわけでないと考える立場だ。

具体的には、これから導入しようとしている裁判員制度に、2点の大きな問題があるように思う。
第一は、刑事の重大事件を対象として市民参加を求める制度になっていることだ。猟奇的なものもあるし、暴力団の事件もある。このようなのは、市民感覚がうまく生きてくる類型とは思えない。民事に陪審を導入すると、企業対消費者の紛争で企業側が不利になるという政策判断が働いたのかもしれないが、市民感覚を生かせるのはやはり民事であろう。刑事についても、むしろ軽微なものであれば、例えば加害者が市民陪審に話を聴いてもらったりして、自分の犯罪を反省し、再犯率を下げるのに役立つといったメリットが出やすいとおもう。
第二は、裁判員制度における評議の方法だ。市民裁判員と職業裁判官が話をする方法についての研究がプアだとおもう。具体的には、ファシリテータを置くか、裁判官のうちの少なくとも一人をファシリテータとしての能力を持つ者にするべきだと思う。そうでなければ、市民裁判員と職業裁判官の話し合いが、「対話」として成立しない。模擬の裁判員評議でも、裁判官側が設定した論点について、多数決的に裁判員の意思を確認される場合が多いようである。裁判官側には、どの論点がその事件の核心であるかとか、論点間の依存関係は見えていても、裁判員側には見えない。「対話」ではなく、ミニアンケートで重大な事件に結論を出すのはいかにも無責任である。

司法動員を認めるという立場でもなく、職業裁判官を盲信する立場でもない、第三の立場として、議論が必要なのではないかとおもう。

2009年04月01日

偶発性を計画する

キャリア理論で、Planned Happenstance Theory(計画された偶発性理論)というのがあるらしい。

出会いが転がっているのは、「そこ」じゃない。


言ってしまえば「アクティブに動いているといいことがある」「意気込んで行ったときほど外しが多い」という、皆さんの中にもなんとなく経験値として溜まっていそうなこの感覚を、きちんと理論化したクランボルツさん、偉大じゃないですか?

メディエーションにおいて、当事者の自己決定は、メディエーターにとって常に偶発的事項である。
とすれば、メディエーターは、その偶発的事項を誘発する計画的活動をなしていることに他ならない・・

KJ法の思想にも通じると思う。
果報は錬って待て(by本田宗一郎)ということか。

2009年04月02日

メディエーショントレーニングの売り言葉

メディエーショントレーニングの売り言葉に、「普段の相談業務にも必ず役に立ちます」というのがあるのだけれど、ちょっと抵抗感がある。
確かに、実際に、「普段の相談業務に役に立った」と言われることはあるし、それは良かったと思うけれど。

何に抵抗感があるかというと、「コミュニケーションスキル」なるものがあって、それを提供者側(講師側)は身につけていて、身につけていない受講生に教え込むことができる・・という考え方そのものについてだ。

わたし自身は、コミュニケーションスキルをマスターしたなんていう実感が全くない。
例えば、トレーニングプログラムの構成方法に関しては勉強をしたし、それなりのノウハウがたまったという実感はあるが、コミュニケーションそのものについては、正直なところ、むしろ苦手意識しかない。

メディエーションについても、場や流れの構成方法について、その仕組みを説明することはできる。
が、いかなる場合にもそれを使いこなせるかというと、また、別問題になる。
練習方法を説明し提供できるが、それだけだ。

コミュニケーションなんていうのは、上手な人が専門的に実施するというようなものではない。
下手でも避けて通れない。
下手な人でも、自分自身や他者に向き合う権利が同様に開かれていると考えるところに、メディエーショントレーニングの魅力があるのではないか・・と、わたしは考えている。

2009年04月04日

生煮えのアイデア

芝さんが、静岡でのメディエーション勉強会を準備している。

わたしも、メディエーション勉強会について考えている。

月に1回位行うとしたらどんな感じで進めるのがよいだろうか。

想定として考えているのは、
・会費は無料か千円以下。
・時間は2、3時間程度。
・場所は東京か神奈川。

会場の確保、メンバーの人選、目的、進め方など。
考えるべきことは多い。

良心的な人が孤立しないで元気に持続力を持てるようになる場になればいいなと思っている。
そういうものが各地にあって、年に一度くらいは、お祭り的にどこかに集まるというようになればもっといいかな。
資格を超えてつきあうための触媒的な場づくりをしてみたい。

開かれた場にすると、口だけ動かすのが得意なひととか、短期的な視野で自分の商売に利用したいだけのひととかをも引きつけてしまうというのが一つのリスク。
もう一つのリスクは、自分たちだけが通じる言葉で話をする、閉じたサークルの「なれあい」になってしまうこと。

参加者に、話題提供を持ち回りで担当するくらいの主体性がないと、活動が持たないと思う。
かといって、敷居の高さを上げすぎて、士業団体内の議論みたいになってはつまらない。

愛媛和解支援センターや長崎メディエーション塾のような先輩を見習ってゆっくりやっていくのがよいのだろうなとおもうが。

2009年04月05日

企業向けの交渉トレーニング

年度も替わったので新しいことも少し。
企業向けの交渉トレーニングを少し増やしていこうと考えている。

メディエーショントレーニングという名称ではなかなか届かない相手に対しても交渉トレーニングとしてなら届けられるかもしれない。

早稲田総研で1日ものの交渉トレーニングを6月27日に行うことが決まった。
http://www.quonb.jp/service/negotiation/index.html
もうひとつ、7月に自治体で実施することも決まった。

メディエーションに熱心に取り組んでいる人と、共同講師の形で、仕事としていっしょにやっていける場をつくっていきたい。
そういう活動の品質を高められたら、市民向けの無料フォーラムなどを含めたアウトリーチ活動の効果も高められると思う。

仕事を請けるかどうかは、自分にとって勉強になりそうかどうかと、社会にとってインパクトを与えるものになりそうかどうかを基準に考えてきたが、それ自身には変わりがない。
もう少し対象を拡げようというだけ。

自腹切ってやる仕事・勉強ももちろん続ける。

2009年04月11日

専門家像の転換をめぐる問題

ナラティブ。 (cricket's eye)

10年ほど前にナラティブ・アプローチが日本に紹介された時、一時的にブームのようになった。しかしそれは、波が引くように減退して行った。私はそれが専門家たちがナラティブ・アプローチを新たな心理療法の一つとしてとらえて飛びついたからだと考えている。ナラティブ・アプローチは、援助技術の一つとして位置づけることも可能では有るが、その土台には専門家としてのあり方を大きく転換させる根本的な思想がある。それゆえ、これを理解できなかった人たちは、あっというまにナラティブ・アプローチに関心を失い、ひどい者は誤解したまま自分の無知をさらすようなとんでもない批判を発表したりすることになった。・・ 日本で最初に体系的にナラティブ・アプローチを取り上げた「ナラティブ・セラピー」の訳者あとがきにおいて、野口先生はこれが単なる技術ではなく、専門家の在り方であるという視点を明記している。しかしながら、一番大切なこの部分を充分吟味しないままナラティブ・アプローチはブームの様相を示し、結果的に何も変わらないまま今に至る。(書店の書棚に見られる本も減りました)

「専門家像の転換」というのは、メディエーションを行おうという場面でいつも出てくる。

専門家が自己の能力の有限性を認め、自己の能力を資源として当事者に開放し、自己を当事者から守る鎧としては使わない・・という話だと思う。

どんな分野でも本当に一流な人は、欧米からの新しい用語で新たにごちゃごちゃ言われなくても、そういうことが理想だと知っているし、できる範囲で心がけているところがあるように思う。
そして、どんな分野でも二流な人にとっては、その鎧は自己アイデンティティそのものだから、そこを脱ぎ捨てる必要性を指摘されると、より頑なに拒否する。理解できても、理解したくないのである。

かくして、一流な人にとっては、なにをいまさらな話になるし、二流な人にとっては、ほら一流な人も重視していないよといって、これ幸いと鎧に閉じこもる。

専門家像の転換の話題には、上記のような構造的問題があるように思う。

2009年04月15日

アンラーン

4/12のETV特集は鶴見俊輔が登場した。

ヘレンケラーと会ったとき、「ラドクリフ大学では沢山学んだ。しかしそのあとたくさんアンラーンしなければならなかった」という話をしていたという。

アンラーンという言葉はそのときはじめて聞いたということだが、「学びほぐすこと」だと考えると話していた。単に忘れるというわけではない。

アンラーンのための方法論は存在するのだろうか?

http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2009/0412.html

2009年05月15日

もちはもち屋

研修ビジネスを行っている会社で、役員をやっている方の話を聞いた。
役員と言っても30代前半で若いのだが、有名なグループ会社の一つを事実上動かしている人物だった。

研修ビジネスでの営業セールスをやっている実感として、「交渉トレーニング」というタイトルでは売れないよと教えていただいた。「営業研修」はあっても、「交渉研修」はないと。

その方がおっしゃっていたので印象的だったのは、これまでは「コミュニケーション研修」と言えば7割方、「コーチング研修」だったのが、少し潮目が変わってきているという話だった。

あまり考えていなかった切り口の話も教えてもらえて、勉強になった。

2009年05月16日

「言ったもん負け」の時代

ある会合が終わってちょっとしたときに、今は、組織の中で正論を言いづらい時代じゃないかという話になった。

正論を言う自由はある・・のだが、しばしばそれは、言った本人が責任を取るということもセットになっている。
支援も得られず、逆に、付随的責任も押しつけられるかもしれない・・

どんな発言にも責任がとらされるということでは、建設的なことが何も言えなくなる。

ファシリテーションが、企業文化の中に入ろうとしているのは、そういう文脈があるだろう。
ファシリテーターの華麗なスキルがある、その場だけでも自由で開放感があるという状況を作り出すことができるとしたら、それ自身、意味があるということになるのかもしれない。
メディエーションとか、コンセンサスビルディングとかは、そのようなファシリテーションスキルを、企業の内部の成文法的な制度と整合性を持たせ、継続的にマネジメントしていこうとする方法論だと言っても良いのかもしれない。
まだ、日本の企業組織では、ソフトウェアとしてのメディエーション・セットを導入しているところは見あたらないが、病院でここまで流行しだしているのだから、可能性は大きいだろうと考えている。

かつての日本の製造業ではQCサークルなどの、職場を民主化する手法で、製品品質改善につなげていったという歴史がある。デミング博士の方法論は、どこの国よりも日本で使われたという。

現在求められているのは、ホワイトカラーの職場を民主化する手法で、生産性を向上することだろう。あるいは、生産性を向上するというレトリックで、ホワイトカラーの職場を民主化することか。

2009年05月18日

消費者庁は道州レベルで

以前、米国の州司法長官(Attorney General)事務所を見学したことがあるが、日本にも道州司法長官または道州消費者庁を置いたらよいのではないかと、かねてから妄想している。

市民生活へのインタフェースを持っているお役所というのは、いろいろな人を相手にしなければならないということもあって、最初はよくても、段々と、防衛的に組織が固くなっていってしまう傾向があるとおもう。

そうした役所のなかで、他の自治体と同程度の機能を果たせという横並びのロジックしかないと、現場で「合法的に仕事を断る理由を探し始める」・・といった形で、後ろ向きなスパイラルに落ち込みがちになるのではないか。

選挙で選ばれた道州司法長官なら、有限の資源をどこに割り当てるかというリーダーシップを発揮できる。そうすれば、もう少し前向きになるのではないかと思えるのだ。

わたしは、現状でも、消費生活センターの相談員の方などは、報酬の割に、総じて熱心で優秀だと思っている。限られた環境で良心的に働いている人が多いと思っている。
「選挙」という制度が入ることで、現場の工夫が、制度的根拠を持てるようになって、より元気が出るのではないかと考えるのだ。

道州制度はなかなか着手できないが、こうした機能を限定した役所ならば、あまり大きくなくてもよいので、現実性もあるように思える。最初は、助言権限だけに限定しても良い。

NPOその他との協働についても、道州レベルくらいなら、具体的な施策を行いやすいのではないだろうか。

法テラスや、商工会議所、あるいは簡裁など別系列の組織とも、道州レベル位でなら施策を作りやすいのではないだろうか。

2009年05月22日

管轄だけにしぼってADRのプロモーションを考える

訴訟になれば、相手方の住所での裁判になる。

たとえば、相手方が会社の場合で、本社が遠くの場合にも、裁判では管轄合意できない限りは、相手方本社住所での手続になる。

まず、支社相手でいいから話し合いたいというような場合、調停が向いているだろう。
裁判所の調停でもいいかもしれないが、裁判所にはできれば行きたくないという人には、民間調停を勧められる。

別のケースで、親族関係の場合を考えてみる。
相手方は年に一度、申立人の近くに戻ってくる機会がある。
申立人としては、日時調整などは相手方の都合を優先してよいので、場所については申立人の住所の近くで、話し合いたいと思っている。

具体的には、介護がらみの相続問題やファミリービジネスの話し合いなんかではぴったりではないかとおもう。家族だけで話し合うと、どうも言いたいことがお互い言えないという状況があるだろう。

ここまでくれば、裁判所の調停で話し合うよりは、もう少し問題解決のプロによる支援(ファシリテーション)が欲しくなるのではないだろうか。

Win-Winとか、感情とか、本音とか、そういう言葉を使わずに、民間調停のメリットを具体的に説明したい。

2009年05月27日

岩波・「思想」五月号は思想の科学特集

「思想というとき、それをいだく態度が問われる。態度をかっこに入れて、その人のもつ知識の多少、高低を問うのでは足りない。」(鶴見俊輔)

その人のしていることが、その人の思想を表現している。
まぁ、しかし、その人がそれをできるのは、その人をとりまく環境が許しているからであるとも言える。

2009年06月08日

愛媛に行くと元気になる

ADRにとって、何が大事かという議論はいろいろあるが、愛媛和解支援センターの活動を見ていると、”気合いと遊び心”を感じる。

”気負いと悲壮感”になってしまっては、いくら良い活動でも、人は段々離れるだろう。

なかなかそれが難しいのだけれど。

2009年06月16日

裁判は恣意的?

裁判は恣意的: 司法書士関川治子のBlog~ADRな日々

関川さんは、「先生方がおっしゃった」と書いているが、「裁判が恣意的」とおっしゃったのは、稲葉先生であって、わたしではない。そこのところは、ちょっとこだわりがある。

裁判官や元裁判官が、裁判所での経験を踏まえて、裁判所の活動に限界があるということを言う場合があるのは確かなのだけれど、民間ADRの側が、その言葉を支えにADR活動をしていくという考え方には、わたしは賛成できない。

裁判所の権威に対して卑屈になるべきではないけれど、冷静に考えれば、裁判所が持っている限界と民間ADRの制約を比べれば、その差はあまりに大きい。
言ってみれば、NTTの電話と「糸電話」くらいの差だろう。
日本の民間ADRで、裁判所の限界を超えるのだということで元気を出すやり方は、すこし考え直した方が良いと思う。

おもちゃに過ぎないという現実から出発して、おもちゃ上等じゃないかと、実はおもちゃでも使い道があるんだと、実証していくところがADR運動だと思う。

「裁判の恣意性」という問題に戻ると、要は、法を徹底的に勉強すれば、局所的な法知識をふりまわすようなことはしなくなるということだろう。

自分の知っている知識をもとにいばりたいだけなのは、評価型調停ですらないはずだが、そういうエゴをどう制御していくかについて、士業団体内でもう少しまじめに考えた方が良いと思う。そういう点だけに限定しても、士業団体ADRは、現実問題として、裁判所に劣っているのではないか。

と、書いている、わたしの文章自体が、無駄にいばっていて、申し訳ないのだけれど。

2009年06月17日

R Cafe しずおか

昨日の記事は、少し反応があった。
ちょっと書きすぎたかなぁ。

わたしは、民間ADRの発展は、市民社会にとってよいことだと信じているので、小さくても良いので、良質で息の長い活動として育っていくことを願っている。
また、いろいろな士業の方とつきあう中で、自分の責任も感じるようになった。
信頼できる人とつながって、めげずにやっていきたいとおもっている。

権威に対して卑屈にならずに、しかし、現実に対して謙虚であろうとすることは、調停の場面でも役に立つスタンスだろうとおもう。それが難しいのだけれど。

わたしのもの好きも度が過ぎているのかもしれないが、昨日は、静岡の自主的な勉強会に参加してきた。

勉強会の名称を決めようというグループワークをして、「R Cafe しずおか」ということになった。
じつは、わたしが参加したグループの名称が採用された。(わたしの発案ではない)
Rは、リラックス、リフレッシュ、リディスカバー(再発見)、リフレイム(見方を変える)、リゾリューション(解決)、リフレクション(ふりかえり)などの意味がある。(このへりくつ付けには貢献した)

カフェについては、哲学カフェやサイエンスカフェなど、最近さまざまな活動があるので、まあ、今ふうな感じで。

芝さんが進行をされたが、ホームグラウンドで、とても安定感がある。

2009年06月23日

消費者行政と司法の連携

以前、米国に行ったときに教えてもらったのだが、マサチューセッツ州では、消費者行政で行った調査結果を使って少額訴訟を行う決まりになっている。フロリダ州でも、消費者行政機関が、少額訴訟手続案内をしていて、連携が深そうであった。

『仲裁とADR 4号』(商事法務、2009)で、NACSの消費者ADRについて執行力を求めるという記載があったのだけれど、裁判所で、消費生活センターや消費者団体の行った調査結果を活用するスキームを作る方が、政策としては筋がよいのではないかと思ったのだけれど、どうだろう?

消費者ADRが対象とする事業者には、悪質業者といってもよいようなものの割合がどうしても高くなるので、「任意の話し合い」というだけでうまく行かないという現場感覚はよくわかる。

しかし、だからといって、すぐに「執行力」を要求しなくてもよいのではないかと思った。

消費生活センターや消費者団体の調査結果を証拠として裁判所に提出するスキームができあがれば、裁判所も安心して悪質業者に対して判決を書けるだろう。
そのようになれば、消費生活センターや消費者団体の調査に対する業者による不誠実な対応は、欠席裁判に近い効果を生むのだから、消費生活センターや消費者団体の実質的な問題解決力が格段に増すのではないかとおもう。

もしかしたら、日本ですでに、これに近い試みがどこかで行われているのかもしれないが・・(知っていたらこっそり教えて下さい。)

2009年07月05日

お金になるコネをいかに作るか

公認会計士の資格のある中高時代の友人が独立したというので、一緒に昼食を食べた。

執行役員として参加する会社も準備中なので時間を充分に使えるわけでないのだが、会計事務所としても営業していかないとと言っていた。

うまくやっていそうに見える人も、それなりに転機が来るなぁという、ぼんやりとした感想を持つ。

有資格者の営業というのも、なかなか大変だ。

竜嵜喜助先生(弁護士)のエッセイを読んでいたら、アポなしで世間話をしにくる近所の人のことが書いてあった。
世間話というか、愚痴話というか、しかし、うっすらと無料法律相談を期待する近所の人の相手をしていても、なかなか商売につながらないだろう。
かといって、あっさり追い返すと、あの先生は高飛車だとかなんとか噂を立てられるのかもしれない。

日本人は無形の専門知識に金を払いたがらないという話があるが、わたしは、安易な一般化は好きではないので、その手のステレオタイプな説明にはくみしない。

が、竜嵜先生のおっしゃるような文脈の中で、良心的に仕事をしていくのは、やはりなかなかにたいへんな道だとおもう。

わたし自身、ひとのことを心配できる状況でもないのだけれど。

2009年07月13日

調停は、カオスの時代

この間の学会では、「ブログ見てますよ」と何人かの方から言われた。
ギョッとする。
しかも、微妙な言葉づかいをしているところを、正確に記憶されていたりすると、ますます。

そういうわけで、というわけでもないのですが、日本人の先生方の話については、今回は、やめておこうかなと思ったのだけれど、1点だけ書くとしよう。

山田文先生が、大正期以降を古典的な調停の時代、74年民調法改正以降を調停の法化の時代、90年代以降をカオスの時代と言っておられた。そして、ADR法制定・施行以降も、基本的にはカオスは続いているのではないかと。

カオスだから、わたしのような人間がいるのかなぁと、わが身を照らして考えていた。
Menkel-Meadowが、97年の論文で、「ADRのロマンチックな時代は終わった」と書いているのだが、日本のこのカオスな時代はロマンチックな時代と言えるのだろうか、とか。

2009年08月04日

仕掛けすぎて、無駄に忙しくなりすぎないために

『雲の果てに』の中で、軍人出身の社長から、主人公が、日本陸軍の作戦要務令を教わる場面が出てくる。社長曰く、「空白は駄目だ。何か仕掛けなければ全滅する」(P98)。

ADR運動も、何に対する戦いかよくわからないが、動いていくことが大事だと思う。
かつ、消耗しきってしまわないように、動き方、戦い方を編み出していかなければならない。

以前のエントリー:富士通・IBM紛争続編

2009年08月05日

資料準備の仕方

二弁夏季勉強会には二年連続で出席させていただいたのだが、去年参加したときに、結構厚い資料なのに、資料全体に通し頁番号がふってあるのに気づいて、さすがだなと変なところで感心した。

弁護士さんも人それぞれで、案外おおざっぱな人も少なくないように思うが、几帳面さにはっとするときもある。こういう資料準備の仕方みたいなところには、気配りが行き届いている。
確かに大勢での話し合いの時に、何頁に書いてあるという話をできるというだけで、落ち着いて話ができる面がある。

この団体は信頼感があるとかないとかということは、案外、些細なところで決まるのではないかとおもう。

運動は事務なり。事務は運動なりだ。

2009年08月07日

制度の違いと文化の違いの混同

静岡で土地家屋調査士をしておられる宮澤正規氏がコメントを書いてくださったので、少し反応してみたい。

土地家屋調査士ADRに関する雑感(Ⅱ)

裁判所の民事調停がある程度使われ、士業団体その他の民間調停が使われないのはなぜかという問題で、「日本人のお上に頼ろうとする意識」に理由を求めておられる。
わたしはこの点には同意しない。

法意識の違いが制度利用の違いの原因となっているという説明は、現在、学問的には否定されつつあると思われる。(例えば、河合隼雄,加藤雅信(2003)『人間の心と法』有斐閣、に示されている日中米の法意識の比較調査では、法意識そのものの違いに意外な結果が示されている。)
少なくとも、証明はされていないということは言っておきたい。

わたしは利用者の意識の問題(または文化の問題)と、民間調停に財政的基盤がないという制度の問題を混同すべきでないと思っている。
米国の「民間調停」には、会社経営のようなスタイルでサービスとして調停を行うビジネス調停と、地域へのボランティア活動を基調とするコミュニティ調停がある。コミュニティ調停については、ビジネスとして成り立っておらず、裁判所その他の補助金で運営されている。米国のコミュニティ調停を「活発である」と見るか「停滞している」と見るかは立場によって異なるが、少なくとも件数ベースで日本の民間調停と比較すれば現在でも非常に多数の実施がある。米国のコミュニティ調停が利用され、日本の士業団体調停が利用されないのは、「お上意識」などではなく、料金体系、財政基盤が決定的なはずだ。(最近は、市民の認知度すら大した問題ではなく、むしろ士業専門家の理解と、機関運営者の意欲・能力の問題なのではないかと思うようになってきた。)

司法調停と民間調停の比較についても論文を準備しているのでそちらで書いてみたい。
(その論文では、司法調停の良さを正面から取りあげる。)

しかし、ADRに取り組んでいる人が、自分の言葉で率直に現状を語っていくのは良いことだと思う。
また、民間調停に取り組んでいく人が、司法調停の良さを評価していくことも大事だと思う。
宮澤さま、ありがとうございました。

2009年08月17日

調停トレーニングについて考えていること

わたしは、調停トレーニングについて
1.調停トレーニングは、現在のところ、未完成である。
2.しかし、多くの人にとって、受講する意義は大きいと思われる。
3.ただし、調停トレーニングを受講する以外にも、調停(メディエーション)を理解するためにできることはある。

という認識を持っている。

1.について。
米国等で発展してきたものを紹介されている段階である。日本では、2000年頃から本格的なトレーニングが始まっているが、まだまだその蓄積は浅い。日本における調停等の紛争解決の実践からの教訓が十分に反映されていると言えるほどのものではない。

2.について。
とはいえ、実際にトレーニングに参加された方の多くの感想は、想像していたよりもはるかに体系的で、有用性が実感できるというものである。これは、裁判所の調停委員や、弁護士会の和解あっせん候補者として活躍されている方の感想でもある。また、普通のサラリーマンであっても、社内の日常的な仕事に生かせるスキルが学べたという感想を持って下さる人も多い。日常生活のスキルとしてもおもしろいものがある。

3.について。
ただ、トレーニング受講は、時間もかかるし、お金もかかる。日本中どこでも実施されているというわけではないから、きっかけがないと踏み切れないだろう。
また、調停トレーニングだけが、調停を学ぶ方法ではない。レビン小林久子先生の書籍をはじめ、日本語で学べる本もいくつかある。論文レベルではもっと多い。

わたしは、調停については、スキルと制度の両面が重要であるが、一番大事なのはその理念、そして理念に基づく運動だとおもっている。
そして、理念は、最終的には、その人の言っていることではなく、その人の実際の行動からしか伝わらない。

2009年08月18日

富士通-IBM紛争における弁護士の働き方

富士通とIBMの紛争を書いた『雲を掴め』『雲の果てに』では、企業と弁護士の関係という意味でも興味深い。
富士通法務の著者が、米国の弁護士事務所に対する思いが深いのに対して、日本の弁護士に対してあまり記述がないというところが気になる。
『雲の果てに』の最終局面では、IBMとの和解を勧める自分たちの代理人弁護士に対して「臭う」と、不信感を描き、その和解案を蹴って、それ以上の仲裁の結論を得ている。こういう箇所もあるので、米国の弁護士事務所を完全に評価しているわけでは必ずしもないのだけれど、全体としてはよくやってもらえたというか、一緒に闘った仲間という評価を持っているように思える。
一方、日本の弁護士については、『雲の果てに』で描かれている仲裁の場面で、何人かが富士通チームに入っているようだが、基本的には富士通法務と米国事務所で協議して闘い方を決めているようで、影が薄い。『雲を掴め』では、序盤に顧問弁護士の助言が全く役に立たなかったというくだりが出てくる。

紛争を扱う場所がAAAであり、米国法の世界だから、米国の弁護士に頼むのは当然ということではある。しかしその点だけでなく、紛争に対する入り込み方が、企業ニーズに対して日本の弁護士の関与が浅すぎるという面があるかもしれない。
米国の弁護士はいちいち死闘にするから、企業の体力を奪うという面もあり、社会全体として日本の弁護士が米国弁護士事務所型にしていくべきという話ではないだろうとおもう。しかし、紛争への関与が深くならないかぎりは、企業法務としての市場は大きくならないだろう。
ビジネスとしてのADRとして、富士通-IBM紛争のような大規模なものを想定するとするなら、弁護士の紛争への関与度の深さも視野に入れないと間違ったことになるだろうと思った。

2009年08月24日

会員外の参加を認めるトレーニングの意義

士業団体で調停トレーニングを企画する方と打合せをすることが多いが、その士業団体に限らず参加者を募集した方がいいですよと、いつも言っている。今回の全青司のトレーニングでは、それがかなって、誰でも参加できるようになった。(追記:どうもわたしが誤解していたようです。実際には、最初からではなく、二次募集があった場合に、募集になるということのようです。失礼いたしました。)愛媛和解支援センターでは、トレーニングの機会を、機関広報の機会とも捉えて広く告知している。

士業団体にとって、自分たちの貴重な予算を使うのだから、会員に参加を制限したいというのは、当然の発想である。しかし、参加者を外から求めるのは、以下のようなメリットがある。

1.緊張感を持ってトレーニングができる

外からの目があれば、横着な方に流れにくくなる。知り合い同士でなれ合いの参加になると、雑になるばかりで研修効果が低くなる。ベテランのトンチンカンな発言などで振り回されにくくなる効果もでる。

2.外部からの期待が理解できる

同じ士業団体内だけで議論をしていても、本音では、自分のお客さんには裁判所の民事調停を勧めるよな、などという感想を持ちつつ、表面的に、これだけの資源を投入しているかぎりなんとか当該団体のビジネスチャンス拡大につなげなければならないといった、概念的なレベルにとどまった、利用者不在の、士業団体内の論理に終始しがちである。
外部の参加者が持っている期待は、一般利用者のそれに近いものがあり、具体的な組織設計イメージにつながる意見が得られる。結局は、それが機関のアイデンティティにつながってくる。

3.機関の広報効果

研修企画をする側は、未熟な姿を見せたら信頼を失うと考えるかも知れないが、そんなことはない。謙虚に献身的に学んでいる姿を見ると、あるいは、組織を外部に開かれたものにしようとする誠実な姿を見ると、自分が困ったときにもここに持ち込もうという気持ちが出てくる。機関を立ち上げた後には、申立件数をどうやって確保するかの問題が出てくるが、漠然とした認知よりも、深いレベルでの応援団が増えないと事件の持ち込みにはつながらない。

4.人数確保

参加人数を確保して、研修会の頻度を保つことができる。

上記のように、トレーニングを、会員に参加を制限しないというのは、当該団体にとって大きな意味がある。
まずは、親しい団体との共催を考えても良いだろうし、近隣の重要な団体(例えば、自治体)への呼びかけを考えても良いだろう。

確かに、他の分野の研修会などではこのような発想はしないだろうとおもう。
上記4点示したように、ADRの研修には、知識だけを会内で共有すればよいというものとは違う意義がある。
これをADRについて知識がなかったり、印象だけで懐疑的な態度を持っている(それが悪いことではないが・・)役職者にきちんと説明して理解を求めるのは大変だろうとは思うのだが・・

2009年08月26日

アサーションの教育方法について

『アサーティブに断ろう』の授業記録と分析

というのを読んでいて、とても違和感をもった。
教材を公開する姿勢はすばらしいし、WEBサイトを見る限り、かなりまじめなよい先生のようだ。
しかし、ここで伝えている「理由を言って断る」練習というのは、はっきり言ってアサーション思想の矮小化ではないだろうか。

しぶしぶなわとびを貸してしまう「行動1」を選択してもかまわないし。
攻撃的な「行動2」を取る”気概”みたいなのが大事になるときだってあるだろうとおもう。
感じが悪いかも知れないけど、理由を言わずに断る自由だってあるはずだ。

行動が選択可能であること、解釈は相手に委ねられること、自分の選択は自分が引き受ける必要があること、ということが大切なのである。「理由を言って断る」という技法を練習するだけでアサーションを学習しているというのはいかがなものかとおもう。

子ども相手にはここまで明確に絞り込まないと、教育していることにならないということかもしれないが。

この授業の中で一番アサーティブなのは、この子↓だとおもう。

T23:はい、今の行動2と行動3、どちらがいいと思いましたか?
C21:行動3(大多数)
C22:どっちもやだ(一人)。
T24:理由は?
C23:どっちも貸してくれないから、やだ。

TOSSランドからのリンク。

2009年08月27日

裁判所の調停トレーニングに採用される道

どうやったら日本の裁判所の調停に、調停トレーニングが入るかを考えている。
アメリカだったら、調停トレーニングを入れた裁判所と入れない裁判所で分けて効果を測定するといったことができそうだが、日本ではなかなか、そういう正攻法なアプローチがとれるかどうかがわからない。
いくつか自主的な勉強会はあるようだし、そういうところで試しに体験してもらうというのがよいかもしれないのだが、なかなか出会いがない。

障害として、①トレーニングのコストと、②実務との整合の問題がある。

①については、トレーナーが無料でやりますと言えば、会場費などの問題はあるにしても、かなりの程度解消されるだろう。
問題は、②である。

一人、あるいは一部のグループだけで北米型の調停トレーニングを受講しても、相調停人や裁判官、調査官、書記官らと考えていることが違えば、やりづらいだろう。
別席で進めるかとかだけでなく、当事者に何から質問していくかという時点でも変わってくる可能性があるので、かなりギクシャクしてしまうかもしれない。
トレーニングを受けたことでかえってやりにくくなるようなら本末転倒だということで、結局普及しないのかも知れない。
しかし、それは実はトレーニングの質の問題で、扱う内容の順序や方法を見直し、利用しやすい体系として構成すれば解決できる可能性もある。

わたしの調停トレーニングに出て下さった調停委員の方からは、おおむね「意味があった」という評価をして下さっている。(単に、悪い評価が耳に入ってないだけという可能性はあるが)
その感触と、実際に、調停委員の協会や裁判所の中で調停トレーニングという話が出てこないという実態にギャップがあると感じている。
どの辺がポイントなのだろうか。

2009年09月03日

チョウニナイゼイション

梅棹忠夫が、日本の近代化には、サムライ化(サムライゼーション)と町人化(チョウニナイゼイション)が可能性としてあったが、結果的にサムライ化を選択したと言っているそうだ。
上野千鶴子(2002)『サヨナラ学校化社会』(太郎次郎社、177頁)に出てくるのだが、どの文献を見ればよいのかがわからない。

こういうエッセイ↓でも引用されている。
オリンピックと日本

先日、あるマナー研修を見せていただいたら、小笠原流礼法を考え方の基礎においているという紹介を聞いた。
サムライぜーションは、いまだ進行中と言えば、言えるのかも知れない。

またあるとき、町人の家訓というのを見せてもらったことがあるが、「来客が帰ってすぐに笑い声を立ててはいけない」とか「酒はその都度買え」とか、非常に即物的な、いろいろなレッスンが書かれていておもしろかった。
町人の倫理と、武士の倫理は違うはずであるが、何がどう違うかについて、もっと知りたいと思っている。

2009年09月10日

面接交渉の立会

離婚調停で問題になることが多いのが、母親に親権がある場合の、父親と子どもの面接交渉である。

調停等で決定されても、履行される割合が低いという話がある。
養育費の支払い履行も低いようだが。

実際の面接交渉の立会をボランティア等で行うと、ニーズがありそうな気がする。
母親側としたら、子どもだけで会わせるのも心配だし、自分が顔を合わすのも嫌だが、第三者がいてくれるなら考えても良いという場合があるようにおもう。
そのとき、メディエーション技法を知っていると、安心して立ち会うことができるのではないかな。

親子の面会交流を実現する全国ネットワーク

弁護士 小松亀一法律事務所_男女問題_面接交渉実施に第3者の介在を命じた事例-判示概要

2009年09月29日

闘うべき相手は士業内部の論理

士業団体の取り組みとして、対話型の調停を研究し実施しようという活動は良い。しかし、口先だけでそれを利用したいという勢力とは闘わなければならないとおもっている。

権威に対して卑屈にならないことも大事だが、経験や能力に対する敬意を忘れてはならないとおもう。
わたしは、その意味で、法曹以外がADRに取り組む過程で、法曹に対する敬意が高まるとさえ考えている。紛争の解決という仕事の大変さが分かってくれば、誰が来ても拒まないという形で運用しつづける大変さへの理解が深まるからだ。また、基本的に誠実に運用されていることそのものが、歴史的あるいは地理的に見て決して当たり前とは言えない、貴重な達成と見られるからだ。例えば、現在でも、わいろをうけとる裁判官がいる国というのは、いくらでもある。ADR活動の前提として、日本の司法の現実を直視する必要があるが、その際には、課題と達成の両面を公平に見るべきだと思う。

士業団体がカネにもならないADRに取り組むのは、業域(平たい言葉では、ナワバリ)を拡大するため(弁護士会は隣接士業の拡大を阻止するため)であるのは、なかば誰でも知っている話だ。
わたしは、そのこと自身は、ある意味、必然的な発想だと思うし、その考え方を貧しいと言っても仕方がないと思っている。
しかし、問題は、その次に、なんとなく体裁だけ整えてその後は政治突破をはかりさえすればなんとかなるだろうという安易な発想が透けて見えることだ。そういう議論を内輪だけでやっていると段々見えなくなってくるのかも知れないが、そんなやり方では、役所も、市民も、他士業もだまされない。

ナワバリを維持したいのであれば、遠回りに見えても、自分たちが役に立つ存在であることを証明するほかない。
地道なところで、世の中の役に立ちたいと思って活動してれば、いろいろな人が助け合えるだろう。
ADR活動はその接着剤としては向いている。

利己的な発想がダメだというのではない。利己的な発想からスタートしてもかまわないが、考え抜かれていないところがダメなのだ。

団体内のなかで、誠実に取り組もうとしている活動をどう位置づけ、肥大化しがちな団体内内部論理をどう制御するか、その団体の賢明さが問われていると思う。

2009年10月06日

トレーニング後のフィードバック

トレーニングの後にフィードバックをいただくことがあるが、飯田邦男さんから5頁にわたる詳細なふりかえりをいただいた。
プロの視点であり、大変参考になる。

わたし自身もトレーニングをするたびにログ(ジャーナル)を書くようにしてるが、自分で気づいて言語化できる部分は少ない。フィードバックを受けて始めて、自分も感じていたことをはっきりさせたりできる。

トレーニングを受けたらログ(ジャーナル)をつけるとよいということも良く紹介しているのだが、伝え方がよくないのか、ピンと来ない人が多いようで、どうしたものだろうと思っている。
わたしは、南山の先生方によるTグループに参加したことがあるが、その種の体験がないとわかりにくいのかもしれない。わたしは、南山の先生方によるTグループの活動をとても尊敬しているが、尊敬しているが故に、「それもどき」はやりたくないとおもっているし・・

2009年10月07日

仲裁センター連絡協議会におもう

弁護士会の仲裁センター連絡協議会が10月2日に仙台で行われた・・のだが、予定が合わず、出席できなかった。

ご厚意で、一部の資料を見せていただけた。

仙台弁護士会は2006年4月開設と後発だが、年間100件以上の事件数があり、全国でも屈指の存在となっている。
自然にそうなったわけではなく、関係者の努力で、ここまで来ているようだ。

わたしは弁護士会ADRの課題は、
1 事務局機能の弱さ
2 多様性の不足
3 実践を改善につなげる意欲と仕組みの不足
だとおもっている。
愛知、二弁、仙台、岡山などではこうした課題に対しても様々に取り組みを行っていて、また、横浜などでは、1の事務局機能拡充などで努力をされている。しかし、日弁連その他弁護士会全体としてADR活動そのものへの関心、理解が限定的で、十分にそのノウハウが広がっていないようだ。
そういう意味で、この連絡協議会や二弁の夏季勉強会は、現場が直接ネットワークしようとしていて、とても意味があると考えている。

さらに余計なことを少し書くが、隣接士業ADR(廣田尚久先生は、隣接士業という言い方そのものが弁護士中心の尊大な発想だとおっしゃるが、便利なので仮に使用させていただく)で、前記の3課題が克服されているわけではない。司法書士会ADRなどでケースマネージャを置くなど、「1 事務局機能関係」では工夫が見られるが、2と3については隣接士業ADRの方が弁護士会以上に腰が引けているところがあり、とてももどかしい。
現場レベルで様々な工夫をしようとしているのを、連合会レベルになってくると、十分に理解できなくなるということは、どの士業でもあてはまる現象のようだ。

昨年の岡山での開催時には出席できて、とても勉強になったのだが、今年は行けずにとても残念だ。

2009年10月15日

カウンセリングと調停技法

全青司のトレーニングで、臨床心理士の方が参加してくださった。
その方と、調停トレーニングは、カウンセリング技法と重なっているところもあるが、本質的に異なっているし、その違いを重視したいという話をした。

わたしが重要だと思う属性としては、
・治療的でないということ(調停は問題解決的、ないし成長支援的)
・2者間でなく3者間であるということ
・セッション数が少ないということ
・公正さの価値を重視すること
・問題のある人をソフトに排除するカウンセリングの負の側面への反対
といったところかなとおもう。

わたしは、カウンセラーにも様々なアプローチがあるが、日本で典型的な来談者中心療法よりも、認知行動療法やグループアプローチのほうが、調停技法と親和性が高いのではないかと感じている。
しかし、むしろ大事なのは、そういったカウンセリング技法の援用というよりも、調停では当事者を治療しないという目標設定の問題だとおもう。治療が必要な当事者には治療を勧め、下手に調停内で治療もどきをしないという節度が大切だ。そう考えると、カウンセラーとの協同のあり方として、技法を紹介してもらう以上に、適切なアセスメントの方法を共有することが大切になるだろう。

カウンセリング技法を中途半端に輸入することより、当事者の問題解決及び成長に役立つ話し合いの仕方はどのようなものであるかを考え、コミュニケーション技法の学習対象をむしろ限定化することのほうが大切なのではないか。

2009年10月16日

もろい直輸入モデルを脱するためにはまずその現実を認めるべき

司法調停に関わっている人たちの多くが、同席調停に象徴されるメディエーション手法を「現実を知らない、海外の直輸入モデル」と認識しているのではないかと、わたしは感じている。

わたしが行っている調停技法トレーニングでは、同席を主としながら別席を否定しないし(例えば、ハーバードのMnookinは別席を行わないモデルを提唱している)、実際にトレーニングに参加して下さった司法調停関係者からは、さほど抵抗は受けないし、ほとんどの場合、有用だったと言ってもらっている。

ただ、現実問題として、同席調停に象徴されるメディエーション手法が、「現実を知らない、海外の直輸入モデル」という側面がないかと言えば、率直に言って、「ある」とおもう。
石山勝巳氏以来、司法調停の中にも細々とは言え同席調停の伝統はあるし、ADR法施行前後から少しずつ実践の成功例が出ているのも事実ではある。が、まだまだ熟度が低い。

ひとつは、民間調停の実践の中から学んでいくこと、もうひとつは、司法調停の蓄積から学んでいくことが大切ではないかとおもう。もちろん、海外の様々な理論や制度などについても、見落としているところが様々にあるに違いがないので、学び終わった気になっているのは良くないだろう。
難しい仕事だが、「もろい直輸入モデル」を、地道に有用なものに作り替えるのは、日本の伝統芸だとも思えるし、意味があると思っている。

わたしの最近の認識は、以上のようなものなので、”メディエーションを学んだ”と自称する人が、司法調停に対して、必要以上に批判的だったり、「教えてやろうか」という態度が出ていたりすると、とても違和感がある。
司法調停への批判に目をつぶれという意味ではない。司法調停への批判そのものも、佐々木吉男以来、あるいは事務的に堕した調停を「寒心に堪へない」と言った三宅正太郎以来の伝統がある。
司法調停の何が課題かを研究するのは、民間調停のマーケティングの観点からも重要だ。
ただし、司法調停では上から目線の決めつけが横行しているといったステレオタイプで決めつけることそのものは、まことに「寒心に堪へない」。

2009年10月23日

調停ロールプレイの質を保つ方法

ときどき、調停ロールプレイで、当事者役の「先輩」が調停人役の「後輩」に向かって、いまは・・と言うべきだなどと「指導」している場面が出くわすことがあるので、最近は、なるべくそういうことは避けて下さいと言うようにしている。
わたしは、こういう行動は、調停トレーニングの質を下げると考えている。
その「指導」の内容の正誤を問わずにだ。

それぞれが与えられている役割をしっかり演じきろうとうすることで見えてくるものが大切だと思う。

2009年10月28日

エピソード主体で話す

わたしはシンクタンク出身で、しかも統計データの分析などの仕事を中心にしていた時期も長かったので、人前で話をするときに、ついついマクロなデータや規則そのもののような堅い情報を中心に組み立てたくなるという癖がある。
まぁ、根がまじめだから、という話でもある。

しかし、こういう話の仕方は、あまり魅力的ではない。
話し手側に映像が描けていないので、冷たい情報だけを伝達することになりがちである。

「わたしは、○○が大事だと思う」というメッセージの裏に、そう思うに至るような、具体的なエピソードを、できれば複数話すのがよいとおもう。
エピソードとは、誰々が、どこどこで、どういう事情で、このようなことをしたといった話でよい。
メッセージとエピソードをセットにして手持ちのネタとしておくとよいようにおもう。

わたしは、人前で話すのはいまだにそれほど得意だとは思っていないが、大分場数を与えてもらって、ある程度は「先発完投してゲームを作る」ことができるようになってきた。
人柄とか話術とかの問題と思い込んで、自分を責めたりせずに、誠実に伝えるところに目標を置くことが大事だと考えている。(そうは言っても、ウケは狙いたくなるので、それを我慢するのも必要なポイントだ。)

わたし自身、「エピソード主体で話す」という目標は、さほど達成できているとは思えない。
しかし、それを忘れる傾向があるので気をつけておこうとするだけでも、多少の進歩はあったように思う。

2009年10月30日

下手は上手の手本

調停ロールプレイの質を保つために、ロールプレイ内で、先輩が後輩を指導しないようにと以前に書いた。これ

世阿弥の風姿花伝に面白い一節があるのを知った。

よき所を知らねば、わろき所をもよしと思ふなり。さるほどに、年は行けども、能は上がらぬなり。これ、即ち、下手の心なり。されば、上手にだにも上慢あらば、能は下るべし。いはんや、叶はぬ上慢をや。よくよく公案して思へ。上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと工夫すべし。下手のよき所を取りて、上手の物数に入るる事、無上至極の理なり。人のわろき所を見るだにも、我が手本なり。いはんや、よき所をや。「稽古は強かれ、諍識はなかれ」とは、これなるべし。 世阿弥『風姿花伝』岩波文庫,p50

諍識というのは、慢心からでる争い心をいうのだそうだ。

2009年11月04日

合意形成手法の企業利用

地方でコンサルタント企業を経営している方から、合意形成手法におけるステークホルダ分析で使う「匿名インタビュー」が、企業向けのサービスとして機能しているという話を聞いた。

インタビューで、誰が言っているかは秘匿し、何が問題かを抽出する。
発言者の秘匿については、契約を行ってから行うという。

企業の再生や、合併後の調整などの場面で、計画づくりの前段の作業として極めて有効なのだそうだ。

こういう仕事のインタビュアーは、良い聴き手でかつ、倫理的に信用できる人であることが必要になる。

2009年11月14日

プロボノについて

福井康太先生が、オーストラリアで、大手法律事務所の業務の2割以上が公益関係業務だということで、「耳を疑いたくなった」と書いておられる。
これ

日本で、「ボランティア」と言えば、「お人好し」「ものずき」「金持ちの道楽」あるいは、「左翼」・・というイメージかもしれない。

しかし、欧米ではもう少し違う位置づけのように感じる。
オバマも公益系の法律事務所にいた時期があったようだが、一般に、自分のキャリアパスを形成するために経験値を積むための場という、ある種の利己的動機が正面から位置づけられているところが違うように思う。

最低限のハコだけ税金等で準備されている質素な場所で、しかし、目線が高い人ばかりで仕事をするので、効率的に、筋肉質な仕事の進め方をしている。したがって、経験値としても良いものが得られる・・そういうイメージだ。

他方、日本の場合、ハコづくりの最初から全部持ちだしでやることが求められる。
身銭を切りながらハコを作っていく過程で、メンバー間の相互不信が募り、互いに嫌な思いをして、リーダーだけが孤立していく・・結果として、経験値が積める段階にたどり着かない・・

ただ、もやいの湯浅氏とか、ライフリンクの清水氏とかのように、「形を作れるタイプ」の成功例が出てきているし、役所などのエスタブリッシュメントの側にしてもそういう相手を見つけて互いに協力するのは有益だという認識が広がりつつあるように思う。

シアワセ最大化~新しい働き方「プロボノ」とは?:日経ビジネスオンライン

2009年11月16日

ADRのゼロ・ワン問題

という言葉が流行らないだろうか。

法律家のゼロワン問題とは、司法過疎の問題を言う。
日弁連-弁護士過疎・偏在って何?

ADRのゼロワン問題とは、ADRの手続はあるが、年間に1件か0件の実績しかないという機関が乱立していることを言う。(と、わたしが思いついた。)

申立はあったが、応諾しなかったとか、相談を受けているうちに解決したとか、そういうこともあるだろうがそれ以前の問題も多い。ADR機関自身が、必ずしも利用されることを前提としていないという驚くべき実態がある。宿泊客が来ると驚くホテルのようなもので、かなり不思議な存在だが、そういうものがたくさんある。

実際には、ADR機関を作るインセンティブを持つ人はいても、紛争解決をするインセンティブを持つ人はほとんどいない。ADR法立法でこの問題について、大きな変化を作ることができなかった。
ここを見直せるかどうかが問題だと思うのだが。

2009年11月25日

映画:フレデリック・ワイズマン「パブリック・ハウジング」

フィルムネットワーク:フレデリック・ワイズマン映画貸し出しリスト

ちょっと前だが、映画を見た。
3時間を超える大作だったが、非常に面白かった。

弁護士で学者でもあり、ドキュメンタリー映画の作家でもある。
ドキュメンタリーといっても、NHKスペシャル風のものではなく、ナレーションなどによる説明は加えず、現実のやりとりを組み合わせて映画にしていくという手法を取っている。

この映画は、シカゴの公営住宅を舞台にしたもの。
赤ん坊を連れた若い女性が入居できるように、住民自治サービスのトップにいるやけに迫力のある黒人女性が電話で役所に交渉する場面から始まる。

路上で麻薬を売っていると思われる女性を叱る警察官の場面や、母親たちを集めて避妊の重要性と方法を説明する講習会の様子(母親が連れてきた幼児たちがわめいている)など、さまざまな場面をつないでいく。
つながりがないと思われていたいくつかの場面の持つ意味がつながってくる。
こういうやりかたでも、映画として成立するのだと驚く。

この映画の中で、Win-Winレトリックの醜悪さというものが存在するなぁとしみじみおもった。
役人が住民たちに会社をおこさせようとして行っている説明会の場面がある。
この地域では、多くの住民に仕事がないので、希望がなく、それで麻薬に走ったりする人が多い。
役所が発注する仕事を請けられる地域の会社があれば、地域に仕事がふえる。
だから、この役人たちが提案していることは筋が通っている。
でも、提案しているというよりは、けしかけているという感じに見える。
そのビジネスがうまくいくかどうかのリスクは、けしかけている側は決してとらない。

2009年12月04日

ADR士?

さる方と「ADR士」という資格が、ADR法の2012年見直し時に入るだろうかという話をしていた。

ADR検討会の座長メモで、ADR士が将来的な課題とされているので、これが検討されるのはごく自然なことだ。

その方は、ADR士なんかができるとトレーニングの仕事が増えて(あなたにとって)良いのでは、という話をされたが、わたしは、ADR士という資格については、ADRの将来の命取りになる危険もあると思っているという話をした。

ADR士という制度を作るプラスの面としては、教育方法論が成熟化し、質的な向上が期待できる面がある。これはその通りだろう。話合いの進め方だけに特化して40時間位のトレーニングが必要とされ、大学院レベルの教育もいくつかある米国などの水準に比べると、日本で実務家が調停に臨む前に受ける教育はいかにも乏しい。その意味で、資格制度の導入が、教育プログラムの充実につながる可能性は否定できない。

しかし、食えない資格がまたひとつ増えるだけの可能性が非常に強い。そうなると、下手すれば分野そのものの死滅につながるおそれがある。イノベーションを阻害する危険も高い。資格合格のために必要とされる教育水準としても中途半端な内容にしかならないだろう。さらには、「態度」をどう査定するか、一度合格させた者の「態度」が維持される保証があるかという問題もある。勉強は必要だけど、勉強したからといって働ける場所はありませんという話になってしまうと、勉強しようと思う人自身がいなくなってしまう。

米国で、州レベルでは、フロリダをはじめとしていくつか資格的な制度があるが、全国レベルでは存在しないのも、下手な制度を作ることで、ADR発展を阻害するリスクを考えてのことだと思う。

やはり、わたしは、安易に資格をつくるより、教育内容そのものの研究や、教育プログラムを実務家に提供できるようにすることを先行させるべきだとおもう。
また、政策的には、個人を認証するだけでなく、教育機関を認証するアプローチもあり、後者も検討すべきだとおもう。

2009年12月07日

アメリカの調停は、公正さが確保されているか

「アメリカの調停は、公正さが確保されているか?されているとしたら、どのように?」という質問を受けた。

70年代頃の発生期は、社会運動としての性質が強く、そもそもより公正であることを求めての活動が中心で、金儲けの意図はほとんどなく、成功し実績を挙げた。
80年代からは弁護士が調停分野に参加するようになり、制度化も進む。現状では、多くの調停が弁護士代理人付きになってきており、当事者が自己権利のための情報に触れないという危険は少ない。また、米国では、公益事務所的なものも多く、調停機関向けの無料法律サービスがある場合もある。
但し、様々な分野に調停手法が導入された結果として、形骸化したお粗末な実務が行われている場合もあるという。
(例えば、以下の文献を参照。Erica L Fox, "Alone in the hallway: Challenges to effective self-representation in negotiation", Harv. Negot. L. Rev., 1996)

歴史的な文脈及び他の制度との関係性の中から見ていくのが大事だと思う。

2010年05月01日

雑誌の購読よりノートを作ることを勧める

調停のトレーニングのときは、やる気が出るのだけど、持続しない。どうしたらいいか、と、よく聞かれる。
あるいは、どういう文献を読むのが良いのかも聞かれる。雑誌を購読するなら何がいいでしょうかとか。

その都度いろいろ応対していたのだが、最近考えたのは、むしろ、ノートを作ることではないかとおもった。
ノートには何を書いても良いが、ルールとして、「後で読み返して分かるように」書く。これがけっこう大変である。例えば打合せなどで備忘用にとるノートとは目的が違うので、勉強用のノートは分けた方がいい。

わたしは研究しているので、当然ノートは作っているが、いろいろ試行錯誤をしている。
まずは始めることが大事だと思う。

パソコンなどで書くのと、紙でアナログに書くのとがあるが、特に、紙で書くのをお勧めしたい。
何かを読んで覚えておきたいということを書き留めておくのもよいが、むしろ、自分が考えたことを端的に書いておく方が役に立つと思う。また、わかったことだけでなく、わからないこと、気になることを書くのもよいとおもう。

結城浩さんの文章参照:
勉強日記の書き方
あなた自身の航海日誌

2010年05月30日

事例から見た江戸時代の紛争解決

渡辺 尚志 (2009) 『百姓の主張―訴訟と和解の江戸時代』, 柏書房.

現在の千葉県茂原市北塚という場所に当たる「北塚村」の村でのもめごとを丹念に紹介しつつ、その背後にある江戸の村や百姓の状況を解説していくというスタイルの本。

資料に基づいての説明だが、現代語訳された紛争当事者の言い分が面白く、公事宿とよばれる裁判手続専門家が暗躍しようとして見破られたり、展開がヴィヴィッドで引き込まれる。
公事宿は、代書手続とともに、裁判期間中の宿泊サービスを提供していた宿屋も兼ねていたそうだ。

江戸時代の農民というと無知で無学という先入観が出そうだが、実態はかなり違うという。文字を読み書きできる人もそれなりにいたようで、書面の記録があるからこそのトラブルが、この本で出て来る最初の紛争のきっかけになっている。

2010年07月14日

司法書士川柳

群馬司法書士会の『執務現場から Vol.42』で、司法書士川柳というのがある。41号に比べて、数も多かったようだが、不景気ネタが多かった。最優秀賞は、

家買った友よ登記はどうしたの 
  ワンKの友

という内容。個人的におもしろいとおもったのは、
書式だけタダで教えてもらえます?
  かしこい主婦

ほかにも、
 開業をしたけど仕事は会務だけ
  多重会務者予備軍

 いそがしさ考えてみりゃみな会務
  登記は皆無

 困っている人の世話して困ってる
  眠れる司士

 継がせたいような継がせたくないような
  前途ヨロヨロ

 電話機の故障気づかぬほどのヒマ
  固定出んわ

 今月も元気に大安まっしろけ
  大いなる不安

 ババ抜きのババが十枚ぐらいある
  重いでトランプ

 夢の中でも補正して謝罪して
  夢の職業

2010年07月24日

命を継ぐもの

芝知美さんに、お父様の芝豊さんの遺稿集「命を継ぐもの」をいただいて読んでいる。

弁護士と司法書士のドル箱になる以前から債務整理分野に取り組んでこられたことで有名な人物だが、文章を読むと、いろいろ新たな発見があった。

司法書士が本人訴訟支援のスタンスを保つというかけ声は、少し上滑りだという自己批判とともに、レビン小林先生の本のなかに、本当の意味で本人訴訟支援をしていく方法の手がかりがあるということを書いておられる。このあたりは、なるほどというか、やっぱりという感じがする。ナアナアで和を強調するタイプよりも、むしろ、闘うことの価値と方法を知っている人の方が、メディエーションへの理解を正しく持ちやすいのかもしれない。

もうひとつ面白かったのが、書評コーナーの、本の選択の仕方である。
痴漢で逮捕された後の植草教授をはじめとして、世間的には「敗北者」として見られている人の言い分の中にも、真実の可能性を信じて耳を傾ける態度がある。決して、鵜呑みにしているわけでもないが、すくなくとも世間と自分自身を一体化させて、その人物を裁くということがない。

印象的なフレーズに、「文章が書けないのは、法律家としては致命的である」というものもあった。
そういえば、『執務現場から Vol.42』に、文章の書き方の講習会の様子が再録されていて、面白かった。

闘う文章を書く能力を身につけることが大事なのだと思う。
予備校の答案練習的な文章ではなく。

2010年08月17日

トレーニングの失敗経験

トレーナーとして、小さな失敗は無数にしているが、致命的なものはなるべくないように努力している。

今から考えても失敗だったなぁという経験がある。
2006年ごろの会社を辞めてしばらくのころのことだが、消費生活相談員向けの研修会の企画の手伝いをしていて、一部講師を引き受けることになった。
当時は、わたし自身は、ファシリテーション手法に関心が強かったので、それを試したいという気持ちが出てしまって、結果的にはまったくうまくいかなかった。
他の講座との調整もしていたのだが、それもうまくいかず、いろいろ後手後手にまわっていて、自分の担当部分をうまく作り込む余裕がなかったということもあった。
ふたを開けると、他の講座の先生方は、自分の持ちネタの披露で、それなりに満足度を得ていたのに対し、私が担当したところは、非常に評判が悪かった。

細かい反省もさることながら、準備したワークの内容が、参加者の経験、関心と十分に噛み合っていなかった点が致命的だったと思っている。
メディエーション的に、参加者の関心と、提供者側の枠組みをうまくすりあわせられると、参加者にとっても提供者にとっても気持ちが良いが、諸条件が整わないとなかなかそのようにならない。
いまとなっては、条件が、悪いなら悪いなりにその講座を組み立てるノウハウというか方法論というのは確かにあるように思える。

ひとつは、あまり無理をしすぎない・・条件が合わなすぎるときは受けない勇気を持つ・・ことだとおもう。が、断ってばかりいると成長できないし、そこは難しい。

完璧は狙わず、目標を何レベルか、予め設定しておくというのも大事だと思う。比喩的にいえば、ノーヒットノーランを目指さず、「試合を作る」ピッチングを目指すという感じか。
①参加者の関心に引きつけて、自分が説明する部分をわかりやすく準備しておくこと・・伝達面の工夫
②参加型のイベントを作って、参加者が能動的に動き、考えられるように準備しておくこと・・対応面の工夫
の両方が必要なのだが、その時の失敗は、②ばかり考えていて、①の準備が足りなすぎた点にあった。

2010年10月02日

季節も変わった

ADRについても、少しずつ潮目が変わってきているような気がしている。

何が良い動きで、何がevilなのか、なかなかわかりづらいのだが。

(リハビリ期間なので、無内容なのはご容赦ください。)

2010年10月07日

ADRで研究すべき課題は多い

多いのだけれど、何もかもやれるわけではないから、少し中長期的な見通しを考え直そうと思っている。

自分が研究するテーマが探せないという人がいたら、もう、お腹いっぱいになるくらい助言したいという、助言欲が沸々と湧くが。

2010年10月13日

ADRが夢の対象になり得るかどうかはさておき

夢を諦めさせる
元記事

合理的に計算したら、勝算を得る確率は極めて低いと認識した上で、しかし、やるひとはやるのである。
しかし、そういう真実を言うと、これだけ嫌われるというレスポンスの大きさも知っておかないとなぁとおもう。

2010年10月19日

考え中

福島県のS弁護士から教えていただいた、弁護士としての紛争解決の基本的なアプローチとして、以下があるという。

第一に当事者間の利害の調整で問題解決を図る。
それがうまく行かないときには、第二に、権利義務関係の問題として処理を図る。
それがうまく行かないときには、第三に、手続き的公正さに配慮して処理をする。

そのうえで、この考え方と、自主交渉援助型調停の考え方が一致しているかと質問をいただいたのだが、その場では、あまり適切に回答できなかったように思う。

手続き的公正さという話が、立証責任の分配みたいな話に限定すれば、上記の順序が正しいのだと思うが、利害の調整に第三者が関わる限りは、最初から手続き的公正さに配慮せざるを得ないはずで。
という内容を考えていたら、うまく答えられなかった。

考え中。

穂積重遠が、法律家が法律を振り回すのは、法律の勉強のしすぎではなくて、勉強が足りないためにおきるという話をしきりに書いている。
そのことと、上記の思考の順序との関係についても考えている。

2010年10月23日

ガンジーの言葉

be the change you want to see in the world

この言葉を最初に教えていただいたのは、コロンビア大学のBeth Fisher Yoshida先生だったが、その後、メディエーションの文献でも見かけた。

変化であり続けるというのはなかなか大変だが、それを拒むと衰退するということだとおもう。
でも、休むに時があり、なのだから、変化を焦ることはむしろ変化を拒んでいるということなのだろう。

2010年10月27日

十把一絡げ感

自分の所属する資格団体では、玉石混淆で、素晴らしい人もいれば、ひどい人もいて、もちろん沢山の普通の人もいるということは、皆認めるのだけれど、ひとつ隣の団体においてもそのような状況があることに対する想像力を持つ人が、何と少ないことだろうかとおもう。

2010年12月04日

HIL・Tグループで学んだこと

ひとつだけここに書き残しておこうとおもう。

4年ぶりに参加して、自分自身の成長を実感することができた。
たくさんの課題も見つかったが。
自己肯定感というか、健全な自己の再発見ができると、課題にチャレンジする勇気も出てくる。

トレーナーとしての自分をふりかえると、参加者に対して、そういう勇気づけをどの程度できていたのだろうかと、心許ない面を発見した。
甘えたり開き直るつもりはないけれど、よいトレーニングの基礎的条件だとおもうので、精進したい。

2010年12月10日

殻(から)に関する小考察

殻をかぶっているなぁということを発見したとして、いつも殻なしで他者と関われるほど強くなければ、結局は、その殻を頼りにして生きていくしかない。

その殻をより機能的なものにしていく(無駄を取り除いたり、効果的な武器を装備したり)ことが大事なのか、あるいは、いつでもその不要な殻を脱げる準備をしていくことが大事なのか。両方大事だとするなら、どこから手をつければいいのか。

モートン・ドイチェの言葉で、「適切に正直」というものがある。
殻に対する寛容性があって、好きだなぁとおもう。

2010年12月16日

いろいろメンテナンス中

久しぶりに歯医者に行って歯石をとってもらった。

歯石というのは、不要な殻なのだが、除去するのに少し勇気が要る。
取り除くと、よかったなと思う。
しかし、取り除いた後は、逆に、すこし不自然な感じがする。

ついでに虫歯も見つかってしまった。

2010年12月24日

度胸と愛嬌

能力が足りなくても、発言すべきときにはひるまずに発言するのが大事だと思う。
が、その能力の足りなさの自覚は、体を緊張させる。
ある人からは度胸があるように見てもらえるかもしれないが、そうでない方からバカなくせにいばっていると見られるかもしれない。
緊張を無理に解こうと思わずに、緊張しているなぁとおもって、緊張している自分を許す態度が大事なのかなぁとおもう。
と同時に、誤解を解くために、なるべく丁寧に説明することも大事かなぁとおもう。すぐには無理だとしても。

学食で昼食をとっていると、隣の席の、若い院生とおぼしき女性がチキンソテー・トマトソースと、ショートケーキをプレートにのせていた。ひとりでの昼食でも、断固、わたしはチキンとケーキなのだ、なにしろクリスマスイブなのだ、という強い意志のようなものが感じられて、おぉ、と、おもった。
声はかけませんでしたが。

2011年01月03日

2011年正月

今年は後厄にあたる。
準備できることは慎重に。決断は清らかに。

成果を出すのにエネルギーの大半を使っていたが、少し調整が必要と思っている。

1.若い人(特に男性)に親切にする

ここ数年、半端なくいろいろな人にお世話になった。特に、偉い人、忙しい人が骨折って助けて下さった。とてもそれに見合う恩返しはできそうにないので、せめて次の世代の若い人に親切にすることをしていきたい。

2.勉強する

アウトプットしたことで枯渇したとは思っていないが、勉強の必要を感じている。
少し模索する。

3.感じる力を使う

11月末の沖縄で、自分の中の感受性を閉じ込めようとしていたところがあることに気がついたので、自分のためにも人のためにも、それを意識的に使う場面を作っていこうと考えた。

日本のADRは、停滞しているといえばそうだろうが、しかし、少しずつ前進しているところもある。
誤解を畏れず、説明を丁寧に、だな。

準備できることは慎重に、決断は清らかに、できることをしていきたい。

2011年02月04日

萩原金美先生から言われたこと

去年の12月に萩原金美先生と食事をさせていただく機会があった。

萩原先生は、原後先生に誘われて二弁仲裁センターの設立に参加されている。川島武宜教授のことも直接面識があるそうで、いくつかエピソードも教えていただいた。原後先生は、川島先生の教え子のひとりだが、弁護士実務においてはアドバイザーだったそうだ。原後先生は、学者が知らない川島先生の面を知っているということを良くおっしゃっていたという。

あなたは、世界を広く見られる学者になって下さいと言って下さった。
糧にしたいと思っている。

学者には、書き過ぎも、書かな過ぎもいるとので・・という助言も、いただいた。

ひまてらニュースの田岡直博さんが公設事務所長時代に書いた公設事務所についてのコラムで、萩原先生の先見性に言及がある。

2011年02月21日

ぼちぼち再開

また放置が続いてしまった。
もうじき再開します。

2011年03月11日

調停トレーニングにロースクール教授を招待する

昨年来日していたLela Love教授に教えていただいたのだが、米国の調停トレーニングでは、ロースクールで10年以上教えている教授を無料招待する場合があるのだそうだ。

したたかに、影響力のあるものを巻き込んで、自分たちがやろうとしていることの理解を浸透させていくという、考え方のようだ。
米国の調停運動について、いろいろな側面があるが、こうした地道で現実的な工夫を重ねていたという話はかなり大事なものだとおもう。

2011年03月14日

計画停電のお預け中に考えたこと

今回の震災は、阪神淡路の被害規模を超えるようだ。
大磯という海沿いの町に住んでいるので、津波は心配。いつ次があるかわからない。
日本人が、冷静に、助け合いの気持ちを持って行動している状況が海外の報道で賞賛されているそうだ。

災害は、直後も大変だが、その後の長きに渡る復興の過程も大変。
祈りを持続できる強さを身につけたい。

歴史的には、関東大震災後の借地借家調停の活躍があった。阪神淡路の震災後には、弁護士会の和解あっせん手続が活躍した。
今回も調停が役に立つ場面もあるとおもう。

危機において、日ごろからの「鍛え方」の問題が出てくる。すぐに動こうとするより、自分自身へのケアを、という呼びかけにはとても共感する。特にテレビを見過ぎるなという警告が重要かも。

ESD ファシリテーター学び舎 for BQOE   : We are OK. You are OK. We care. ダイジョブ、ダイジョブ。
Marky on the WEB 2011/3/13 できることをやろう

2011年03月17日

関東大震災後の借地借家調停

以前、それなりに詳しく調べたことがある。

大正期の調停法としては、最初に成立・施行されたものが1922年の借地借家調停法である。
この施行の翌年の1923年に関東大震災後が起きた。死者が10万人を超える大災害であった。

この災害の後の東京復興で、この借地借家調停が活用された。

借家人たちが焼けてしまった跡地にバラックの仮小屋を建てて住んでいるという状況下で、借家人と大家が話し合いをするというパターンが典型例であった。
当時は、「罹災都市借地借家臨時処理法」なんて当然できていなかったから、伝統的な法解釈に従って、不法に占拠されている状態と同様に処理せざるを得ない。つまり、バラックの仮小屋をつぶして出て行けというのが伝統法学の立場になる。が、いかにもスワリが悪い。

そこで、借地借家調停法が活用されたのである。

法律ができたから自然に使われたというわけでは決してなかった。
裁判所は、東京都内の13箇所にテント張りの出張調停所を設け、調停委員には、東大法学部の教授陣が参加した。穂積重遠の報告では、穂積の他に、牧野英一、三潴信三、高柳信一、鳩山秀夫、末弘厳太郎の参加が記録されている。

このとき教授とともに学生もボランティア活動を行い、その活動を引き継ぐ形で東大セツルメントが生まれる。東大セツルメント法律相談部での活動は、後に日本における法社会学の発祥につながっていく。

穂積は、この借地借家調停に、「異常な」情熱を傾けたと、我妻栄が後に述べている。穂積自身の記録の中にも、大学のない日は「毎日」、調停に出かけたと書いている。
穂積は、先に挙げたような紛争では、借家人のその場所に住みたいという気持ち、大家の家を貸したいという気持ちの延長上に解決を探してうまくいった例があることを紹介している。穂積は、インタレストベースの現代調停とほぼ同等な発想をしていたのである。

この活動への評価が、その後の調停法の拡大・発展につながった。
借地借家調停法は、分野が限られていただけでなく、適用が大都市部に限られていた。

しかし、その後、調停法は、むしろ危機時において「伝統的な法解釈から乖離できる」便利なものとして、戦時体制に奉仕する存在としての拡大・発展していったという負の側面も忘れてはならない。

また、関東大震災直後の治安維持令が、二年後の1925年に治安維持法につながった。

日本は、震災を乗り切れる。しかし、震災後に育つ「良きもの」と「悪しきもの」への対処を間違ってはならないとおもう。

2011年04月26日

偉ぶらない

「偉ぶらない」こと - A Daily Life in Uptown Tokyo ”I do just what I can do.”

多くを観察して少なく判断する・・偉ぶらない・・「偉ぶらない」ということは、本業への強い自信に支えられている・・

いやはや、まったく・・

2011年10月19日

民間調停のビジネスモデル6種類。

思いつきだが、ちょっとメモしておこう。

1.内部補填型
 一部の高額事案で、多数の少額の赤字案件をまかなう。
 例:弁護士会ADR

2.高額特化型
 高額の案件しか受けない。
 例:事業再生のみ、相続のみ

3.人材派遣型
 調停人を派遣し、一回ごとに料金を回収する。

4.卸売り型
 調停センターを稼働させている機関が、ニーズのある機関と契約して、手続を卸売りする。
 年間契約するイメージ。

5.システムコンサルティング型
 機関の中に調停システムを設置するコンサルティングビジネス。

6.研修プロバイダー型
 トレーニングを売る。

2011年11月04日

白熱教室JAPAN・第1回

録画していた小林傳司教授の白熱教室JAPAN・第1回を見た。
八木絵香さんが、サブファシリテーターみたいな形で出ておられた。
(八木さんは、PIフォーラムにも参画しておられる。)

番組の中では、理系の不確実性を文系の人が理解しないという話を主に議論していたのだが、科学者、役人、消費者、生産者がそれぞれの立場で、その不確実性を引き受けたくない現実を見事に浮かび上がらせていたように思う。

ところで、文系の(例えば、裁判手続の)不確実性を理系の人が理解しないという話を議論するとしたら、どういう素材でどういう構成で議論すると良いのだろう。

過去のエントリー:NHK白熱教室JAPANに、阪大CSCD・小林傳司教授登場 (私的自治の時代)

2011年11月08日

白熱教室JAPAN・小林傳司教授・第2回

とーちゃん、テレビ勉強やな、と、11歳になった長男に言われながら第2回も見た。

いよいよ福島の原発の話題が取り上げられる。
第2回の話で印象的だったのは、小林教授が高校の理科の教科書に書いた文章を検定官に修正させられた下りだった。
科学には決められないこともあるという考えは受け入れられず、(たとえ、現時点で不確定なことがあるとしても)最後は科学は勝つ、と言い切らなければならないという、理科の教科書を作る上での前提があるという話だった。

八木さんの発言場面はまたもや一回だけだったが、しかし、「これは」という問いかけだった。
ファシリテーターの仕事は、表面的な技術だけでなく、どこに位置取りをしていてどこから発言しているかが勝負だとおもうが、その意味ですばらしかった。

八木さんに問われて話し出した、南相馬出身の方は、それまで展開されていた議論への違和感を語っていたが、その語り口の中に、ご自身が被災地を代表して話すことへの違和感も混じっていたように、わたしには感じられた。誠実な方だなと。

≪白熱教室JPN≫社会と科学技術の関係を考える。第一回「英国BSE事件が問いかけるもの」。実況ツイート13 by kei_sadalsuud さん - Togetter

memo: NHK白熱教室Japan“社会的意思決定はどうするのか” - Togetter

2012年01月02日

あけましておめでとうございます

昨年の後半より、なんとなくブログのエントリーが滞りがちですが、今後も、なるべく更新しようとおもっています。相変わらずの備忘的リンクが多いでしょうが。

新しい生活は慣れましたか、と、よく聞かれますが、街にはとても、職場にはまだまだ、というところです。

震災前に比べて、「希望のない社会」ということはあまり言われなくなったような気もしますが、「戦時中のような健全さや健康さ」みたいなものが満ちる予感を感じることがあります。

「世代」を意識して仕事をするのが大事かなという感じがしています。

本年もよろしくお願いいたします。

2012年03月06日

中京大学シンポで感じたこと

乱世の英雄タイプの人が活躍するなぁと。

神戸大学の金子由芳先生が、おっしゃっていたのが印象的だった。
現地に入っていろいろ聞いていたが、「教授でござい」という形だとなかなかうまくアプローチできないが、まずボランティアとしてどぶさらいみたいなことをやった結果、いろいろな知り合いができて自分の研究にも協力してもらえる関係性ができたとおっしゃっていた。
フィードワーカーの見本のような活動だとおもう。芝さんともタイプが似ている。

どういう結果につながるかわからないときにとりあえず動けるかというのが第一の関門だということには、多くの人が気づいているとおもう。
理屈をこねて動かない“残念”な人も依然として、至るところにいるけれど。

しかし、わたしは第一の関門よりも、第二の関門が重要だという気がしてきた。
思うような結果が得られなかったとき・・つまり空振りしたときに、他人の責任にして行動をやめてしまったり、あるいは自分にダメだしして行動をやめたり、あるいは同じ行動に固執し続けるということでなく、別の行動を選んで再チャレンジできるかどうかが肝なのかもしれない・・と。
その別の行動の選択も、自分のメンツを守るとか惰性というより、必要とされていることへの感受性をもとになされる。
第一の関門を突破した“残念”な人が、最も声高になるのもこの局面かもしれないが、そこを通過できれば、本当にやるべきことが見えてくるかもしれない。

偉い人には、脇が甘いところがあるのはなぜだろう、というのが、前からの疑問だったのだが、上記の意味での寛容性の問題かもしれないなと。

2012年03月13日

震災から一年経って

さるかたの言葉だが、世の中の「地金が出た」という印象がぴったりくる。

一年経って、だいぶ隠されてはきているのかもしれないが、一度その姿を見せてしまったという、とりかえしのつかなさがある。よい方から見れば希望とか機会だが、わるい方から見れば残酷さそのもの。

わたしが特に強く感じたのは:
1.本業の重要さ
2.余力に気づいて行動できる能力
3.助けを受ける能力

1.に関して、危機に際して、役に立ちたい気持ちはあっても、その機会を得ることができるものは限られている。今回の震災でボランティアもえらかったが、仕事として役目を果たした方々の活動もすばらしかった。(原発行政を含め、そればっかりではなかったが・・)自衛隊もえらかった。私が会った気仙沼の市役所のおじさんもえらいなぁとおもった。
2.に関して、1とは矛盾するが、行動できた人を見ると、やはりすばらしいとおもう。変に計算して自分を縛っているところがないか、自己チェックが必要だなと。やれない理由探しの罠に陥っていないか。やらないならやらないと決めた自分に対する寛大さと併せて持ちたいなと。
3.に関して、助けとか支援とかの動きが目立ったが(実際には充分とはまったくおもわないが)、良心的に暮らしているほとんどの人にとっては、助けられる方が助けるよりも気が重い。助けを受ける能力というものがあるなとおもった。助けられる側のマナーとか倫理というのはいったい何なんだろう? よりそうとか、傾聴するとかだけではすまない、考えるべき何かが存在しているように感じる。

2012年05月30日

生活保護をめぐる一連の騒ぎ

生活保護をめぐる一連の騒ぎはかなり不快に感じる。片山さつきたちの「調査」が、何なのかを問われる必要があるように思える。熱狂が誘導された先で政策が決定されていく構造の行きつく先が何なのかを考える必要がある。

2012年5月26日(土): 星野智幸 言ってしまえばよかったのに日記

生活保護の考え方 - NPO法人POSSE(ポッセ)代表・今野晴貴 - Yahoo!ブログ

『貧困』を考える-2.捕捉率19.7% - 高原千尋の暗中模索

生活保護問題対策全国会議のブログ 扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために

2012年09月04日

えらそうに言うと、ブーメランになって自分に刺さるだけなのですが・・

大学院進学志望者の学生さんから相談を受けたので、はじめて修士課程に進学する立場で何をしたら良いかを考えてみた。

わたしのブログは、学生さんよりも、(法律)専門職の方などすでに職業を持っている方が見ている場合が多いと思うが、たとえば、会務を進めていく場合にも、合意をとりながら物事を進めていく上では、研究手法を身につけておくことが有用だと思うので。

えらそうに、何を言っとるか、という妄言(自分の中の声・・)も聞こえてくる気がするが、気にせずに行くことにする。

1.とりあえずの研究テーマを作ること

本気を出せば成果を出せると思っている人は多いが、実際には、本気を出してからが勝負である。本気を出したとたんに、自分の頭の悪さに嫌になったりする。知識のなさやらなまけぐせやらも本気になって邪魔をしてくる。

研究テーマは暫定的に作れば良い。たとえば10個考えてみるのもよいかもしれない。
まず、ひとりでブレインストーミングして、10個リストアップする。
テーマは、「同席調停と別席調停」みたいな名詞で止めるのではなく、「なぜ、日本の家事調停で同席調停が普及しないか」といったリサーチクエッションの形(疑問文)で作る。
次に、その10個のテーマを、具体的に行うには、どのような活動が必要か考えてみる。文献レビューとして、どの辺りから手をつければ良いか、実査研究(アンケートやインタビュー)を行うかなども考える。
少なくとも10個のうち、3個くらいは、上記のような検討を基にした研究計画を書いてみる。
この段階では、それぞれ、500字~1000字くらいの短いものでもよい。
次に、図書館に行って、関連文献を集め目を通す。参照→ 原田大樹先生:九大法学部生のための情報収集ガイド
文献を見たときには、まめに研究ノートに書誌情報とメモを残す。
文献で学んだことを踏まえて、研究計画を書き直しメモを作る(まずは、1000字程度でもよいとおもう)。
研究計画では、何が足りないかという現状分析、リサーチクエッション、研究手法(インプット、方法、アウトプット)を明らかにする。

ここまでできたら、指導教官を含めて、様々な人に相談するとよい。
(この段階以前に相談してはいけないという意味ではない。助言する側に、相談者の意図が分かる程度の情報を与えないと、適切な助言がしづらくなる。)

2.研究ノートを作ること/論文執筆作法を意識的に学ぶこと

自分の思考を育てることが大切である。そのための方法として、研究ノートを作るとよい。これは別に新しい方法ではない。梅棹忠夫の『知的生産の技術』には、200字のミニ論文を書く習慣を作れと書いてある。野口悠紀雄の『超整理法』にも、アイデア製造システムへの言及がある。
5000字程度の小論を毎月新たにアウトプットできるくらいの基礎体力をつけることを当面の目標とする。

戸田山 和久『論文の教室 : レポートから卒論まで』(日本放送出版協会・2002年)
白井 利明=高橋 一郎『よくわかる卒論の書き方』(ミネルヴァ書房・2008年)
なども大変参考になるはず。

3.生活習慣の重要性

文系の研究の場合、自分との闘いという側面が強い。調子の良いときもあれば悪いときもある。メンタル面を維持するためにも、むしろフィジカル面に気を配るとよいとおもう。
矢野顕子が離婚後に自尊心を維持するためにジムに行くことを勧められ実行したという話をしていた。
わたしは、2007年からジョギングをはじめたがいまでも一応続いている。

自分の生活を見直してみて、書店や図書館に行く時間をとっているか、研究テーマを探す・拡げる活動、とりあえず決めた研究テーマを深める活動などをしているか、など、問い直してみる。
本当にやろうと思えば、仁義なき戦いの菅原文太なみに、「時間がないんじゃあ」ということになるとおもう。

ということで、ご健闘をお祈りしています。

進学を考えられている方は、思い切って様々な人に相談してみたら良いと思います。

そして、ついでに不吉な話もリンクしておきます。
データえっせい: 専攻別にみた博士課程修了生の惨状

2012年10月17日

本:想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』

ブログを書くスタンスも迷うところ。
ブログは、考えているけれど、もう少し深めてから出したいと考えていることを書くには適した媒体ではない。
しかし一方で、外に出されているものから形成される印象というものもあって、そこのずれについては自分ながら違和感が出てくる。

当面はこれまで通り、雑多に行こうとは思うが。

想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』 (講談社現代新書・2011年)

平田オリザさんを撮った「演劇1」「演劇2」が上映中の想田和弘監督の新書。

フレデリック・ワイズマンをアイドルと呼ぶドキュメンタリーの映画監督である。
NHKでニューヨーカーズなどのドキュメンタリーも作っていた人であるらしい。

ドキュメンタリーは、人々の「やわらかい部分」を撮ることだというが、日本人の監督がその加害者性に自覚的であることに対して、アメリカ人監督の多くはあまりそういう議論をしないという話が興味を引いた。マイケル・ムーアに代表されるように、真実の告発者であり、カメラという言論の道具によって権力を暴くといった素朴な自己イメージも強いのだそうだ。
想田氏が、ワイズマン本人に、その加害性を聞いたところ、出演する側には出演するなりの理由があって同意しているということと、実際に被写体の状況が変わってしまったということはこれまでなかったという話をしている。(P184)想田氏は、ワイズマンのこの発言には、少し表情の陰りを感じたとも書いており、興味深かった。

「演劇1」「演劇2」は、現在のところ福岡では上映の予定がないようだ。広島でも岡山でも松山でも準備されているようなのだが・・

著者のブログ:
観察映画の周辺 Blog by Kazuhiro Soda


追記:

福岡でも上映が決まったようだ。
KBCシネマ1・2

2013年02月14日

ブログが書けないのは

忙しさというより、萎縮が原因だな。

ぶつぶつ言うぞ、という気合いも変だけれど。

2013年03月16日

「英語による教授法ワークショップ」前半戦終了

フィリピンのワークショップの半分が終わった。

お金をかけて勉強させていただいているのはありがたい。
練習に次ぐ練習なので、とても疲れるが、周りを見ていても成長しているのがわかる。

英語力を向上させるのが目的ではなく、「英語による講義法」の勉強である。
英語によらない「講義法」を学ぶ意義にもつながっている。

受講者側の気持ちとして、「しっかり休憩したい」、「追いまくられるのは辛い」、でも他方、「勉強にならない非効率な時間を過ごすのはイヤだ」という感じを体験するのも貴重だ。
ワークショップのファシリテータ/トレーナーの立場ばかりやっていると、その実感が薄れるからだ。

大学1年生の授業の様子も、まるまる1コマ分参観させていただいた。
李白と杜甫の詩に対する道教と儒教の影響というテーマについて、学生がグループ発表をしていた。
TAかと思ったら1学生だったというくらいしっかりしている学生さんもいて、刺激的だった。

日本の大学のグローバル化が必要だという文脈でいろいろな動きが見られるが、こういうものを見ると、確かに、取り組みのスピードアップが必要だという気にもなる。

大学受験の遺産の食いつぶしでのんびり4年間過ごすというような牧歌的なことは許されなくなってきているというのは事実だと思う。

他方で、表面的に、9月入学にするとか、英語による授業に置き換えるという話にしかつながりにくいというところにこそ、日本の大学の改革に関する議論の浅さを感じる。

今回のワークショップに参加して、自分の能力の足りなさに関しては、改めて、その大きさにおののく感じがする。
他方、自分が直感的に感じて模索してきた方向性の大事さについては、自信を深めることもできた。それは収穫だった。

あと、1週間、がんばります。
長男の卒業式に参加できないのは残念だけど。

2013年07月20日

日本ADR協会のシンポジウムなど

7/12の日本ADR協会のシンポジウムでは、電通パブリックリレーションズの松本洋司氏を招いたパネルディスカッションが興味深かった。

松本氏がはっきりおっしゃったのが、民間ADRの認知度向上において大事なのは、一般市民向けということでなく、関係者に向けた活動だということだった。この点は、わたしも常々思っており、機会がある毎に言ってきたことだったので、広告の専門家から見てもそうなのだと確認できた点が良かったと思っている。
身内さえ使わないような手続を誰も使うわけがない。

また、仙台弁護士会の震災ADRの話を斉藤睦男先生が講演された。概要は既に勉強していたが、改めて伺うとやはり興味深かった。その前の、渡部晃先生のご講演といろいろな意味で好対照だと思ったが、やはり足を運んで話を聴くということは大切だと感じる。

あとは、雑多にリンクもしておこう。

慶應義塾大学 教養研究センター|アカデミック・スキルズ
研究の進め方についての10分程度の小講義集。

@nifty:デイリーポータルZ:ガッツポーズワークショップ
世の中には、いろいろなワークショップがあるなと。

芝さんが、SEO対策をされているそうなので、リニューアル後のサイトにもリンクを。

芝事務所【静岡の司法書士】 | 相続 登記 債務整理 設立 コミュニケーション

2013年10月30日

英語学習について考えたこと

英語への苦手意識は脱けないけれど、なんとかかんとかやっている。
特に電話がやっかいだけれど、避けて通れない。

英語は易しい言語だという人がいるが、わたしはそうは思わない。
結局、言語は社会の複雑さを反映する。
英語も日本語も難しい。たぶん中国語も。

日本での英語教育がよく批判されるが、わたしはそれほど間違っていると思わない。
むしろ取り組みの絶対量が少なすぎることが問題だと考えている。
天につばだが。

トレーニング方法としては、森沢洋介氏の英語上達完全マップが良いと思う。本は、こちら
やさたくにも通じる。

英語学習のイデオロギーとでも言うべきものについては見直しが必要ではないかと思っている。

わたしが思うに、このイデオロギーには4種類存在する:①無色透明モデル(どんな相手の話も理解し、相手に合わせられる人を目指す)、②同化モデル(アメリカ人の価値観を内面化することを目指す)、③輸入代理店モデル(アメリカでは・・と紹介する人になる)、④専門商社モデル(自分のローカリティを語れ、相手のローカリティを受容できる人を目指す)。

これからは、標準的には、④を目指すとよいのではないかと思う。自分もそう意識している。

2014年05月07日

もっと英語で情報発信

友人がブログで、日本のインテリの英語での情報発信の必要性を書いている。

山の手の日常 Everyday Life in Uptown Tokyo*日本のintellectualsはもっと英語で発言しよう

まったく同感。

英語を書いて発信するのはハードルが高いのは、やはり同じ日本人からの目線が気になるからだけれど、良い意味でKYにしっかりやっていくべきだなと。

世界の中には、日本に関心と愛情を持って見ている方もたくさんいるし、逆に悪意を持って変なラベルを貼ってくる人もいる。
世界のなかで味方を増やしていくのが国益にもなるし、また日本人としてより世界への貢献もできる道が拓ける。
開いた態度が必要だ。

戦後の日本の平和的貢献は、いろいろな背景事情が重なったこともあるが、日本の国民自身が世界相手に戦争するのはこりごりと思ったという面もやはり強いと考える。
すでに世代が変わりつつある中で、どうやって中長期的により平和的に世界に貢献するかということについて、個人レベルでも社会のレベルでももう少し意識的になるべきなんだろう。

ひとりでもやれることはある。

2014年05月12日

山本七平の日本人論

アメリカに来てから日本人論を読みたくなって、kindleでいくつか読んでみた。
その中で、山本七平の議論に興味を引かれたし、説得的であると思えた。

通史的に書いてある、『日本人とは何か。(上)』〈下〉 があり、鎌倉時代の御成敗式目等に焦点を当てた『日本的革命の哲学』、徳川時代の心学等に焦点を当てた『日本資本主義の精神』がある。
徳川家康(上) (下) もおもしろかった。
家康は側近に外国人を置くなど、外国からの情報入手を重視していたという指摘があった。

歴史学や法制史の立場から彼の議論がどう見られているのかよく知らないのだが。

日本の社会が持つ特徴として、欧米との共通性と相違は何か、中国との共通性と相違は何かということについて、率直(straightforward)な見解(ナラティブ)が必要だと思うようになった。
日本人が消費することだけを目的にした日本人論でなく、外国人に通じるナラティブとして。

2014年06月09日

あと2ヵ月

早かったなぁ・・

まだ2ヵ月ある、と、リフレイムをしよう。

2014年08月02日

増える空き家

最近報道が目につくようになっている。

パターンとしては、相続後の兄弟間等で今後の方針が決められないという場合と、安易に入居させた後のトラブルが心配という場合があるようだ。(その両方というのもあるかもしれない。)

合意形成・紛争解決そのものが問題になっているケースなのだから、対話型調停が使えそうだと思えるが、使ってもらう前には、それなりの準備や実績づくりが必要だろう。

対話型調停を広げるためには、話し合えば何でも解決するみたいなことを繰り返すだけではなくて、実際的な社会の文脈の中で使われるようになるために資源を集中していくみたいなブレークスルーが必要なのだろう。

道なき道をこじ開ける持久力のある人にとっては、面白い分野がいくつかあるとおもうが。

2014年09月19日

研究者コース、専修コースの大学院入試

9/18,19に大学院入試があった。

九州大学大学院・法学府入試情報

にわか愛校心みたいな話で恐縮だが、研究環境として、九大の法学府はなかなかよいのではないかと思っている。
春にももう一度試験があるので、やる気のある学生さんが来てくれると良いなと思っている。

ロースクールについては、9/20,22に直前の入試説明会が予定されている。

九州大学法科大学院

九州大学法科大学院・ツイッター

2014年11月05日

調停人名簿にチーム制を

調停人名簿にチーム制を導入したらよいのではないかと考えている。

名簿を整備したらあとは機械的に割り振りみたいなことではなく、それぞれのチームが特徴を出して自分たちの活動をアピールし、それを当事者(や代理人)から選んでもらうようにする。

チームは、チームリーダーを決めて、その人のリーダーシップを活用しつつ、グループとしてのまとまりを育てていく。

実際の調停があれば、チームでその実務をふりかえる。

手続の進め方についても、実体的知識についても、チーム単位で主体的に研究する。

時には、複数のチームが合同で学び合う。

チームのメンバー構成としては、一緒に仕事をしたいなぁと思える人同士で組む。

チームの人数規模は4人から8人くらいが適当ではないかと思うが、柔軟で良いとは思う。

こうした仕組みを導入し、具体的なチーム活動を支援する環境を整えれば、調停の質がかなり向上できるのではないかという気がする。
単なるアイデアに近い話ではあるが、私は効果に関しては、それなりの感触がある。

どこかのセンターで採用してもらえないだろうか?

2014年11月13日

Reuniteモデルで考えたこと

先日のReuniteの調停についてもいろいろ興味深い話を伺った。
メインのトレーナーをつとめられたSandraさんは、ソーシャルワーカー出身だということだった。
ソーシャルワーカーとしては指示的(directive)だったので、調停を学ぶのには苦労したとおっしゃっていた。

調停人は8人しかおらず、そのメンバーでずっと実施をしているという。事前アセスメントを重視するので、調停手続になる件数はさほど多くない(年間15件くらい)ため、その人数で可能だという。
むしろ、「一緒に調停をやりたい」と思えるような人に調停人になってもらうことが重要だという。

2日連続で合計9時間になる集中型の調停プログラムを運用しているという話も興味深かった。
初日は午後だけで3時間、2日目は午前午後で6時間実施する。初日の夕食は、離れて暮らす方の親が子どもと食事を取る場合が多いそうだ。
国際的な子どもの連れ去り問題に特化しているので、期日間隔を置いた悠長なプログラムよりは集中型で行った方がよいということらしい。

分野を上記のようなモノに限定しない前提で、プロフェッショナルな進行さえできるなら、1日あたり6時間といった集中的なメディエーションへのニーズは日本でも十分にありうると、わたしは思っている。
週末9時間とか、12時間というモデルもありえるかもしれない。

文脈を家族問題に特化とか、職場の問題に特化とか、何らかの限定を行った方が、提供者側も利用者側もやりやすそうだとは思う。

ADRの認知度が低いとか、司法調停が安すぎるとかいった漠然とした話をいつまでもしているべきではなくて、もう少し地道な「商品開発」にとりくむことが日本のADRには必要だとおもっている。

2015年06月05日

少額の債権回収に

ADRセンターの件数を増やすにはどうしたよいかをよく聞かれる。

いろいろな活動が考えられるが、原点に返って、まずは少額の債権回収に使ってもらうのがよいのではないかと思う。

手が回らなかったり、地域でのイメージの悪化を恐れて、うまく回収できていない人たちはたくさんいる。
法律家に相談すればまず間違いなく「内容証明」の活用を勧められるが、それをしたくない人たちもいる。

相手の事情に応じて分割払いなどに応じても良いが、放置は困るという利用者にアプローチしていくというだけで、年間5件以下というセンターを卒業できるのではないかと思う。

あまり難しく考えすぎず、まずはここから始めたら良いのではないか。
たとえ不応諾でも相手にアプローチしたという記録は残り、申立人にとってはメリットがある。
相手方にとっても、自身の言い分を言える機会が与えられるというメリットがある。

2015年06月06日

家賃の滞納

民間型ADRの利用が勧められる類型として、家賃の滞納がある。

大家さんの立場で滞納は困るが、意外と気を遣う。
テナントの事情を配慮すべきだが、距離が近くなりすぎると逆にやっかいになるかもしれない。

これも内容証明が一般的には使われるだろうが、ハードな手続に見えすぎる割には、相手の反応を受け取りづらい。

借家人側にとって言い分がある場合も多く、そのパターンも多様(備品を補修して欲しい、近隣とトラブルがある、先立つものがない・・)である。

さらに、最終的な明渡まで考えると、強制執行は強硬すぎるというだけでなく大家さん側にお金がかかることが多い。その意味でも、きちんと話し合えた方が良い。

2015年06月07日

債務者からの申立

民間ADRに向く3つめの類型として、債務者からの申立がある。

法律相談では、債務者から相談されると、請求があるまで放っておきなさいという助言がされることが多いようである。
かといって、債務不存在確認訴訟ができるという助言も適当でない場合が多いだろう。

一定の支払には応じるつもりがあるが、相手の言い分そのままではとてもじゃないが受け入れられないという場合に、第三者が立ち会いの下での話し合いには意味がある。
特に、自らの側にも一定の落ち度を認めることにやぶさかでないといった場合に、こちらとしてはやれることはやったと言える状態を作り出せるのは有意義である。

相手方にとっては、手続に応じれば何らかの支払を受けられる可能性は高いと考えられるため、メリットがある。

2016年02月26日

木佐茂男教授の最終講義

2/20に木佐茂男先生の最終講義があり、その後の交流会を含めて出席。
学者だけでなく、ニセコ町長をはじめ自治体関係者や司法関係者が多く参加されていた。

つい先日最終講義をされた野田進先生とともに九大法学部の大物名物教授であることには異論がないとおもう。

特に、ニセコ町基本条例の仕事と、ドイツ司法と日本の比較の仕事は特に大きなもので、日本という国の「民主化」を進めるために大きな仕事をされたと、私は考えている。

最終講義でも、司法統計の間違いの指摘などを通じて、裁判所に煙たがられているという話をされていたが、木佐先生の仕事は確かに痛いところを突いているのかもしれないが、裁判所への敬意を失っているものではない。もう少し、裁判所の方が寛容になってはどうだろうかと思う。

研究面だけでなく、教育面でもずいぶん情熱的であったようだ。

大物教授と比較してへこんでも仕方がないので、自分は自分の課題をやっていくしかないのだが。

木佐茂男先生のブログ:プラッツ
木佐・九大院教授:定年退職、最後の教壇 地方創生のヒント示す /福岡 - 毎日新聞

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