10年ほど前にナラティブ・アプローチが日本に紹介された時、一時的にブームのようになった。しかしそれは、波が引くように減退して行った。私はそれが専門家たちがナラティブ・アプローチを新たな心理療法の一つとしてとらえて飛びついたからだと考えている。ナラティブ・アプローチは、援助技術の一つとして位置づけることも可能では有るが、その土台には専門家としてのあり方を大きく転換させる根本的な思想がある。それゆえ、これを理解できなかった人たちは、あっというまにナラティブ・アプローチに関心を失い、ひどい者は誤解したまま自分の無知をさらすようなとんでもない批判を発表したりすることになった。・・ 日本で最初に体系的にナラティブ・アプローチを取り上げた「ナラティブ・セラピー」の訳者あとがきにおいて、野口先生はこれが単なる技術ではなく、専門家の在り方であるという視点を明記している。しかしながら、一番大切なこの部分を充分吟味しないままナラティブ・アプローチはブームの様相を示し、結果的に何も変わらないまま今に至る。(書店の書棚に見られる本も減りました)
「専門家像の転換」というのは、メディエーションを行おうという場面でいつも出てくる。
専門家が自己の能力の有限性を認め、自己の能力を資源として当事者に開放し、自己を当事者から守る鎧としては使わない・・という話だと思う。
どんな分野でも本当に一流な人は、欧米からの新しい用語で新たにごちゃごちゃ言われなくても、そういうことが理想だと知っているし、できる範囲で心がけているところがあるように思う。
そして、どんな分野でも二流な人にとっては、その鎧は自己アイデンティティそのものだから、そこを脱ぎ捨てる必要性を指摘されると、より頑なに拒否する。理解できても、理解したくないのである。
かくして、一流な人にとっては、なにをいまさらな話になるし、二流な人にとっては、ほら一流な人も重視していないよといって、これ幸いと鎧に閉じこもる。
専門家像の転換の話題には、上記のような構造的問題があるように思う。