富士通とIBMの紛争を書いた『雲を掴め』『雲の果てに』では、企業と弁護士の関係という意味でも興味深い。
富士通法務の著者が、米国の弁護士事務所に対する思いが深いのに対して、日本の弁護士に対してあまり記述がないというところが気になる。
『雲の果てに』の最終局面では、IBMとの和解を勧める自分たちの代理人弁護士に対して「臭う」と、不信感を描き、その和解案を蹴って、それ以上の仲裁の結論を得ている。こういう箇所もあるので、米国の弁護士事務所を完全に評価しているわけでは必ずしもないのだけれど、全体としてはよくやってもらえたというか、一緒に闘った仲間という評価を持っているように思える。
一方、日本の弁護士については、『雲の果てに』で描かれている仲裁の場面で、何人かが富士通チームに入っているようだが、基本的には富士通法務と米国事務所で協議して闘い方を決めているようで、影が薄い。『雲を掴め』では、序盤に顧問弁護士の助言が全く役に立たなかったというくだりが出てくる。
紛争を扱う場所がAAAであり、米国法の世界だから、米国の弁護士に頼むのは当然ということではある。しかしその点だけでなく、紛争に対する入り込み方が、企業ニーズに対して日本の弁護士の関与が浅すぎるという面があるかもしれない。
米国の弁護士はいちいち死闘にするから、企業の体力を奪うという面もあり、社会全体として日本の弁護士が米国弁護士事務所型にしていくべきという話ではないだろうとおもう。しかし、紛争への関与が深くならないかぎりは、企業法務としての市場は大きくならないだろう。
ビジネスとしてのADRとして、富士通-IBM紛争のような大規模なものを想定するとするなら、弁護士の紛争への関与度の深さも視野に入れないと間違ったことになるだろうと思った。