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もろい直輸入モデルを脱するためにはまずその現実を認めるべき

司法調停に関わっている人たちの多くが、同席調停に象徴されるメディエーション手法を「現実を知らない、海外の直輸入モデル」と認識しているのではないかと、わたしは感じている。

わたしが行っている調停技法トレーニングでは、同席を主としながら別席を否定しないし(例えば、ハーバードのMnookinは別席を行わないモデルを提唱している)、実際にトレーニングに参加して下さった司法調停関係者からは、さほど抵抗は受けないし、ほとんどの場合、有用だったと言ってもらっている。

ただ、現実問題として、同席調停に象徴されるメディエーション手法が、「現実を知らない、海外の直輸入モデル」という側面がないかと言えば、率直に言って、「ある」とおもう。
石山勝巳氏以来、司法調停の中にも細々とは言え同席調停の伝統はあるし、ADR法施行前後から少しずつ実践の成功例が出ているのも事実ではある。が、まだまだ熟度が低い。

ひとつは、民間調停の実践の中から学んでいくこと、もうひとつは、司法調停の蓄積から学んでいくことが大切ではないかとおもう。もちろん、海外の様々な理論や制度などについても、見落としているところが様々にあるに違いがないので、学び終わった気になっているのは良くないだろう。
難しい仕事だが、「もろい直輸入モデル」を、地道に有用なものに作り替えるのは、日本の伝統芸だとも思えるし、意味があると思っている。

わたしの最近の認識は、以上のようなものなので、”メディエーションを学んだ”と自称する人が、司法調停に対して、必要以上に批判的だったり、「教えてやろうか」という態度が出ていたりすると、とても違和感がある。
司法調停への批判に目をつぶれという意味ではない。司法調停への批判そのものも、佐々木吉男以来、あるいは事務的に堕した調停を「寒心に堪へない」と言った三宅正太郎以来の伝統がある。
司法調停の何が課題かを研究するのは、民間調停のマーケティングの観点からも重要だ。
ただし、司法調停では上から目線の決めつけが横行しているといったステレオタイプで決めつけることそのものは、まことに「寒心に堪へない」。

コメント (5)

せきかわ:

メディエーションを勉強している過程で裁判所の調停に学ばなければならない点があること、裁判所の調停が優位にある場合も往々にしてあることは重く認識しています。

先日相談を受けた労働問題は、裁判所の調停がいいだろうなと思いますし、実際に依頼者にもそのようにお勧めしました。

一方、個人的な経験上、裁判所の調停を利用する前に依頼者の方にお伝えしていることがあります。それは「調停委員に当たりはずれがありますので、良い方にあたるようにお祈りしましょう!!」ということです。

過去の案件でも家事事件で調停に出席した依頼者が非常に傷ついたり、なんでこんなことを言われるのか?!と憤慨した例を見てきました。

地元支部で、私の尊敬すべき先輩も調停委員をされており、安心してお願いできるというケースももちろんありますが、一方で非常に差別的な考え方を持っている方も調停委員をしていることを知っています。

尊敬すべき先輩によれば、調停委員内部でも困ったちゃんの扱いには憂慮しているとのこと。

このあたりがもっと改善されるといいなと切望しております。
また、裁判所の調停の実務を勉強してみたいとも思っています。

ヱ:

いつもお世話になっております。

書き込みありがとうございます。

裁判所の調停委員にアタリ・ハズレがあるのは、事実なんだとおもいますが、民間ADRでも、調停人にアタリ・ハズレが避けられるとまでは言えないとおもいます。

このあたりは、民間ADRをいかに存立させていくかというポイントになりそうだとおもっています。

土地家屋調査士ADRを推進していく中で顕在化していることの一つに、民事調停委員(調査士会推薦)がADR(民間調停)に協力的ではないという事実があるように感じます。調査士の場合、認定調査士の活動できるフィールドはADRの場に限られていますが多くの民事調停委員は「認定」すら受けようとしません。同席調停、別席調停あるいは指導型調停の是非等どのようなADRをデザインしていくのか、輸入物をどのように主体的にアレンジしていくのか楽しみでもあるのですが。

ヱ:

民事調停委員のADRへの関与が積極的でないという話はおもしろいですね。
全国的になのでしょうか。

司法調停の調停委員を中心に手続実施者名簿を作っている機関がうまく行っているとも限らないとおもいます。
このへんももっと分析したいのですが。

裁判所の民事調停のことを「司法調停」と言うこともあるらしいことを知りました。「司法」や「裁判」等の言葉に頼ってADRを「裁判外紛争解決」と称する人が多いように感じられる。民間ADRは素直に「民間調停」と言えば良いと思う。あるいは「メディエーシォン」と言ったほうが良いような気がする。「土地家屋調査士(境界)メディエーシォン」等と言えばいかにも輸入物の雰囲気がしてかえって市民に受けるのかもしれないし実態を標榜していて嘘がない気がする。日本の教育の中に「学校」と「塾」が存在(共存)しているのは現実だ。今まで裁判所(司法)だけで調停を行ってきたことにある種の敬意を表したいと思う。しかしながら「権威」としての最後の砦であると自負していた裁判所(司法)にも教育界で言うところの「塾」、すなわち民間調停を取り入れざるを得ない閉塞感が有ったのではないかと推測します。なぜ閉塞感に陥るかというと「個人主義」の台頭があげられると思います。すなわち権威主義だけではコントロールできない司法の現実があるのだろうと思います。日本における国民の個人主義が必ずしも一般に歓迎されていない理由の一つに権威による制御不能があげられると思います。民間「メディエーシォン」は当事者の高い個人主義(自己解決能力・判断能力(仮に潜在的であるにしろ))を前提にしていると思います。よって民間調停は個人主義に立脚した考えの下に展開しようとしているので、現在ではその運用は時期尚早との意見も多数あること思います。
私は、当事者の目線に立った民間調停が仮に徹底した「傾聴」だけであったにしても行われる事を期待しています。

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2009年10月16日 08:08に投稿されたエントリーのページです。

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