メディエーションの本物の事件よりもメディエーショントレーニングにばかり熱心だと揶揄されるような状況というのは、なにも、日本だけにあるのではなくて、アメリカでもあるようだ。この間のリンドさんの話だと、イギリスでも同じようだ。
メディエーショントレーニングを熱心に取り組む人が本物の事件に取り組むように成長することも大事だし、すでに事件を扱っている人たちが改めてメディエーショントレーニングに触れるのも大事なことだ。そのために、メディエーショントレーニング自身がそれに耐えるように進化する必要もあると思う。
ただ、メディエーションは、そのような「事件」だけを扱うものではない。日々是メディエーションである。たとえば、メディエーショントレーニングそのものをメディエーションの場と見なすこともできる。トレーニングに対して不信感を持って来る参加者達に、尊敬の態度を持って接し、その方自身が選び取る形で変容する機会をできるだけ誠実に提供する。・・言うのは簡単だが、やるのは大変で、何度やっても、これが最高ということにはなかなか至らない。
だから、わたしは、メディエーショントレーニングにトレーナーとして多くの人が取り組めるようにできないかと考えている。
まずいくつかメディエーショントレーニングを受講することは必要としても、そのあと、いつまでも受講者の立場に留まるより、トレーナーとしての経験を積むことが、メディエーターとしての能力開発に役に立つと思うからだ。
なにも長時間の正式なトレーニングだけがトレーナーの仕事ではない。数時間の簡単なイベントの企画でもよいとおもう。
・・といったことは機会をとらえて何度かしゃべっているつもりなのだが、実際にはなかなかそこまでやるのは大変なようだ。
わたしとしても、もうすこしメディエーショントレーニングがいろいろな場に拡がるようになにかできないかと考え中である。