調停やADRをなぜ研究しているか、また研修やなんかで話をしているのはどういうつもりか、と質問されることがある。
その質問にもいろいろな意図があるようなのだけれど、「確かに考え方はおもしろいところがあるかもしれないが、ビジネスとしてあるいは社会制度として定着する可能性について、本当にあなた自身が確信しているのか」というようなものがあるように思える。
その質問者の真意には、やってみたいけれど、もう少し背中を押して欲しいという気持ち(積極派)と、やる気はないけど本当においしいならもう少し考えてみてもよいよという気持ち(消極派)があるように思う。
これに対するわたしの答えは、「自分個人としてもおもしろいし、社会にとっても有用な考え方だと確信している。しかし、それがどのように定着するか、しないかについては完全な見通しを持っているわけではない。むしろ、手探りでいろいろやっている。すでにいろいろ誠実にやっておられる方、あるいはこれから取り組んでみたい人と連携しながら、少しずつできることを丁寧にやっていきたいと思っているし、現にそうやってある程度活動している。そのような状況であるから、無責任にだれかの背中を押すことはできないし、ましてや、やる気がない人を説得してやらせようというつもりもない。ご自身の取り組みを行うか、行わないかは、ご自身で考えていただきたい。そのうえで、何かやろうということになり、ご一緒できることがあれば、ぜひ声をかけていただきたい」というものだ。
まあ、こんなにすらすらと答えられないで、困った顔をしてつまってしまうこともある。
それはそれで、一つの何か真実を反映しているということなのだろう。
もちろん、すらすらと、正確に答えたとしても、「そんなことを聞きたくて質問したんじゃない」という顔をされてしまう。
質問者も残念そうな顔をしているのはわかるが、わたしも残念なのだ。
心地のよいインチキを言うわけにはいかないし、なによりこちらとしては同志を探しているので。