日教組の”影響”と言論の自由について (内田樹の研究室)「私も永遠の真理を知らず、あなたも知らない。だから、私たちはたぶんどちらも少しずつ間違っており、少しずつ正しい。だとすれば、私の間違いをあなたの正しさによって補正し、あなたの間違いを私の正しさによって補正してはどうだろうか」というのが「言論の自由」が要求するもっとも基本的な「ことばづかい」であると私は考えている。
誤解している人が多いが、「言論の自由」に基づいて私たちが要求できるのは「真理を語る権利」ではなく、「間違ったことを言っても罰されない権利」である。
その権利の請求の前件は「私は間違ったことを言っている可能性がある」という一項に黒々と同意署名することである。
だから、「私は正しく、おまえは間違っている」という前提から出発する人は「言論の自由」の名において語る権利を請求できないだろうと私は思う。
メディエーションとの文脈で考えてもおもしろい一節である。
まず、「間違ったことをいっても罰せられない権利」について。
メディエーションで大切なのは、スキルよりもスタンスだと思う。
ここで書かれている「言論の自由」を厳密に、限定的に実現する場がメディエーションであるとおもう。
だからこそ、「間違ったことを言っても罰されない権利」の<例外>を、メディエーションの規約で考えるのは大切だろう。「秘密は守られます」だけでなく、「原則として秘密は守られますが、暴力その他の特別な場合には、メディエーション機関から適切な機関に連絡する場合があります」とすべきだろう。
どのタイミングでどのようにいうかという問題は残るが。
次に、「私は正しく、おまえは間違っている」という考え方について。
メディエーショントレーニングの目標は、「私は正しく、おまえは間違っている」という構えから、自由になる方法を獲得することだ。特に、なんらかの資格を持っていると、「私は正しく、おまえは間違っている」という立場に立ちたくなる。トレーニングは、そのための武装解除手続と言っても良いかもしれない。しかし、逆に、メディエーショントレーニングを受けた経験そのものが、「私は正しく、おまえは間違っている」という立場に立たせる原因になる危険もある。
わたしが、法的知識とメディエーションスキルを素朴に接合すれば足りるというモデルに対して感じる違和感はこのあたりだ。
「わたしは、法律家であるから正しく、メディエーションスキルがあるからますます正しい」と考える<構え>は、完全にずれていると思う。