もちろんわたしもそうなのだが、これはかなりあてはまっているのではないだろうかと密かに思っている。
自分でももてあますほどの気性の荒さが、まわりとの軋轢であったり、自分自身への攻撃であったりに向かいがちなところを、なんとかうまく制御するため、技術や、空間や、手続があればよいと、意識的、無意識的に望んでいるからではないだろうか。という仮説。
非常に偉い人がADRに関心を向ける割合が高いのも、もともとそういう激しさというかエネルギーを建設的に向けていて、その部分と通じる何かを感じているからかもしれない。
(もちろん、逆は真ならずで、気性の荒さは偉さを保証するものではないし、ADRに関心があるからといって偉いわけでもない)
まったく論証困難な命題で、ただのたわごとですが。