ある会合が終わってちょっとしたときに、今は、組織の中で正論を言いづらい時代じゃないかという話になった。
正論を言う自由はある・・のだが、しばしばそれは、言った本人が責任を取るということもセットになっている。
支援も得られず、逆に、付随的責任も押しつけられるかもしれない・・
どんな発言にも責任がとらされるということでは、建設的なことが何も言えなくなる。
ファシリテーションが、企業文化の中に入ろうとしているのは、そういう文脈があるだろう。
ファシリテーターの華麗なスキルがある、その場だけでも自由で開放感があるという状況を作り出すことができるとしたら、それ自身、意味があるということになるのかもしれない。
メディエーションとか、コンセンサスビルディングとかは、そのようなファシリテーションスキルを、企業の内部の成文法的な制度と整合性を持たせ、継続的にマネジメントしていこうとする方法論だと言っても良いのかもしれない。
まだ、日本の企業組織では、ソフトウェアとしてのメディエーション・セットを導入しているところは見あたらないが、病院でここまで流行しだしているのだから、可能性は大きいだろうと考えている。
かつての日本の製造業ではQCサークルなどの、職場を民主化する手法で、製品品質改善につなげていったという歴史がある。デミング博士の方法論は、どこの国よりも日本で使われたという。
現在求められているのは、ホワイトカラーの職場を民主化する手法で、生産性を向上することだろう。あるいは、生産性を向上するというレトリックで、ホワイトカラーの職場を民主化することか。