以前、それなりに詳しく調べたことがある。
大正期の調停法としては、最初に成立・施行されたものが1922年の借地借家調停法である。
この施行の翌年の1923年に関東大震災後が起きた。死者が10万人を超える大災害であった。
この災害の後の東京復興で、この借地借家調停が活用された。
借家人たちが焼けてしまった跡地にバラックの仮小屋を建てて住んでいるという状況下で、借家人と大家が話し合いをするというパターンが典型例であった。
当時は、「罹災都市借地借家臨時処理法」なんて当然できていなかったから、伝統的な法解釈に従って、不法に占拠されている状態と同様に処理せざるを得ない。つまり、バラックの仮小屋をつぶして出て行けというのが伝統法学の立場になる。が、いかにもスワリが悪い。
そこで、借地借家調停法が活用されたのである。
法律ができたから自然に使われたというわけでは決してなかった。
裁判所は、東京都内の13箇所にテント張りの出張調停所を設け、調停委員には、東大法学部の教授陣が参加した。穂積重遠の報告では、穂積の他に、牧野英一、三潴信三、高柳信一、鳩山秀夫、末弘厳太郎の参加が記録されている。
このとき教授とともに学生もボランティア活動を行い、その活動を引き継ぐ形で東大セツルメントが生まれる。東大セツルメント法律相談部での活動は、後に日本における法社会学の発祥につながっていく。
穂積は、この借地借家調停に、「異常な」情熱を傾けたと、我妻栄が後に述べている。穂積自身の記録の中にも、大学のない日は「毎日」、調停に出かけたと書いている。
穂積は、先に挙げたような紛争では、借家人のその場所に住みたいという気持ち、大家の家を貸したいという気持ちの延長上に解決を探してうまくいった例があることを紹介している。穂積は、インタレストベースの現代調停とほぼ同等な発想をしていたのである。
この活動への評価が、その後の調停法の拡大・発展につながった。
借地借家調停法は、分野が限られていただけでなく、適用が大都市部に限られていた。
しかし、その後、調停法は、むしろ危機時において「伝統的な法解釈から乖離できる」便利なものとして、戦時体制に奉仕する存在としての拡大・発展していったという負の側面も忘れてはならない。
また、関東大震災直後の治安維持令が、二年後の1925年に治安維持法につながった。
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日本は、震災を乗り切れる。しかし、震災後に育つ「良きもの」と「悪しきもの」への対処を間違ってはならないとおもう。
コメント (1)
今回、穂積重遠のマネをすこししてみたいと思います。
田畑和博
投稿者: 田畑和博 | 2011年03月26日 07:00
日時: 2011年03月26日 07:00