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闘うべき相手は士業内部の論理

士業団体の取り組みとして、対話型の調停を研究し実施しようという活動は良い。しかし、口先だけでそれを利用したいという勢力とは闘わなければならないとおもっている。

権威に対して卑屈にならないことも大事だが、経験や能力に対する敬意を忘れてはならないとおもう。
わたしは、その意味で、法曹以外がADRに取り組む過程で、法曹に対する敬意が高まるとさえ考えている。紛争の解決という仕事の大変さが分かってくれば、誰が来ても拒まないという形で運用しつづける大変さへの理解が深まるからだ。また、基本的に誠実に運用されていることそのものが、歴史的あるいは地理的に見て決して当たり前とは言えない、貴重な達成と見られるからだ。例えば、現在でも、わいろをうけとる裁判官がいる国というのは、いくらでもある。ADR活動の前提として、日本の司法の現実を直視する必要があるが、その際には、課題と達成の両面を公平に見るべきだと思う。

士業団体がカネにもならないADRに取り組むのは、業域(平たい言葉では、ナワバリ)を拡大するため(弁護士会は隣接士業の拡大を阻止するため)であるのは、なかば誰でも知っている話だ。
わたしは、そのこと自身は、ある意味、必然的な発想だと思うし、その考え方を貧しいと言っても仕方がないと思っている。
しかし、問題は、その次に、なんとなく体裁だけ整えてその後は政治突破をはかりさえすればなんとかなるだろうという安易な発想が透けて見えることだ。そういう議論を内輪だけでやっていると段々見えなくなってくるのかも知れないが、そんなやり方では、役所も、市民も、他士業もだまされない。

ナワバリを維持したいのであれば、遠回りに見えても、自分たちが役に立つ存在であることを証明するほかない。
地道なところで、世の中の役に立ちたいと思って活動してれば、いろいろな人が助け合えるだろう。
ADR活動はその接着剤としては向いている。

利己的な発想がダメだというのではない。利己的な発想からスタートしてもかまわないが、考え抜かれていないところがダメなのだ。

団体内のなかで、誠実に取り組もうとしている活動をどう位置づけ、肥大化しがちな団体内内部論理をどう制御するか、その団体の賢明さが問われていると思う。

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2009年09月29日 05:34に投稿されたエントリーのページです。

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