Social Innovation Dialogue
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元三菱総研の吉村春美さんが始めたソーシャルイノベーションダイアローグ。
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元三菱総研の吉村春美さんが始めたソーシャルイノベーションダイアローグ。
中央大学法科大学院・野村修也教授による、金融ADRの説明。
調停とあっせんの言葉の違いの説明に、相変わらず、「案」を出すかどうかで説明されているのが気になる・・
何らかの形で面識がある方に参加していただいての実施だった。参加者は15人。
人柄がよい参加者ばかりで、なんとなく、終えるのがもったいないようなまとまり感がある良い雰囲気だった。
飯田邦男さんもフルに参加して下さった。
扱った内容は以下の通り。
傾聴スキル(3人での演習)
倫理
調停ロールプレイ(近隣関係:行列植木鉢)
調停フィッシュボウル
合意文書作成
応諾要請(消費者関係:リラックスワン)
同席・別席
調停ロールプレイ(労働関係:Yシステム)
まとめ
ユーロスペースでフレデリック・ワイズマンの特集があったそうだということを終わってから知った。
わたしは、ウィルコムをデータ通信(エッジ)と音声(PHS)の2回線使っている今となっては絶滅危惧種ユーザだ。
音声をソフトバンクにして、データ通信をイーモバイルにする人が周りでは多いが。うーむ。
トレーニングの後にフィードバックをいただくことがあるが、飯田邦男さんから5頁にわたる詳細なふりかえりをいただいた。
プロの視点であり、大変参考になる。
わたし自身もトレーニングをするたびにログ(ジャーナル)を書くようにしてるが、自分で気づいて言語化できる部分は少ない。フィードバックを受けて始めて、自分も感じていたことをはっきりさせたりできる。
トレーニングを受けたらログ(ジャーナル)をつけるとよいということも良く紹介しているのだが、伝え方がよくないのか、ピンと来ない人が多いようで、どうしたものだろうと思っている。
わたしは、南山の先生方によるTグループに参加したことがあるが、その種の体験がないとわかりにくいのかもしれない。わたしは、南山の先生方によるTグループの活動をとても尊敬しているが、尊敬しているが故に、「それもどき」はやりたくないとおもっているし・・
弁護士会の仲裁センター連絡協議会が10月2日に仙台で行われた・・のだが、予定が合わず、出席できなかった。
ご厚意で、一部の資料を見せていただけた。
仙台弁護士会は2006年4月開設と後発だが、年間100件以上の事件数があり、全国でも屈指の存在となっている。
自然にそうなったわけではなく、関係者の努力で、ここまで来ているようだ。
わたしは弁護士会ADRの課題は、
1 事務局機能の弱さ
2 多様性の不足
3 実践を改善につなげる意欲と仕組みの不足
だとおもっている。
愛知、二弁、仙台、岡山などではこうした課題に対しても様々に取り組みを行っていて、また、横浜などでは、1の事務局機能拡充などで努力をされている。しかし、日弁連その他弁護士会全体としてADR活動そのものへの関心、理解が限定的で、十分にそのノウハウが広がっていないようだ。
そういう意味で、この連絡協議会や二弁の夏季勉強会は、現場が直接ネットワークしようとしていて、とても意味があると考えている。
さらに余計なことを少し書くが、隣接士業ADR(廣田尚久先生は、隣接士業という言い方そのものが弁護士中心の尊大な発想だとおっしゃるが、便利なので仮に使用させていただく)で、前記の3課題が克服されているわけではない。司法書士会ADRなどでケースマネージャを置くなど、「1 事務局機能関係」では工夫が見られるが、2と3については隣接士業ADRの方が弁護士会以上に腰が引けているところがあり、とてももどかしい。
現場レベルで様々な工夫をしようとしているのを、連合会レベルになってくると、十分に理解できなくなるということは、どの士業でもあてはまる現象のようだ。
昨年の岡山での開催時には出席できて、とても勉強になったのだが、今年は行けずにとても残念だ。
南山大学の紀要「人間関係研究」が公開されている。
なぜか一覧からはリンクされていないのだが、各号は公開されている。
第8号
第7号
第6号
第5号
第4号
第3号
第2号
第1号
*
山口真人「人間関係トレーニングにおける「学びの深さ」の次元の探求」(PDF)
津村俊充「自己変革のためのアクションリサーチ「セルフサイエンス」~認知行動療法の原理を活用して~」(PDF)
中村 和彦・杉山 郁子・植平修「ラボラトリー方式の体験学習の歴史」(PDF)
中沢則夫「金融ADR制度-立案者の告白」NBL,913,pp42-47
率直な文体でわかりやすかった。かなり大規模な立法だったようだ。
金融業界は、金融庁ばかりではなく、利用者に理解されなければならないということを認識して欲しい。そして、企業としてトップ以下真摯に向き合う姿勢を持って欲しい。・・ということが最後に書かれていた。
10月10日-12日までの3日間は、全青司のトレーニング。
早いもので第4期。
今回は32名の参加。今年は、司法書士会外からも2名の参加があった。
あと1日。
10月10日は体育の日で、子どもの運動会だったのだが、仕事を優先した。来年は運動会を優先しようとおもう。
早いもので今回は第4期だったのだが、全青司の会員以外の司法書士も多かったようで、多重会務者中心の初期とは様相が異なってきている。その意味で、運営者側と参加者に距離が広がってきている。
単位会から支援を受けて参加していただいたかたもおられたようだ。
今回はフィッシュボールで実演した点や、司法調停と民間調停の違いについて考えたところなどが前回までと変えた点としてある。
この全青司の7日間40時間のプログラムはかなり構成を考え、毎年試行錯誤を重ねている。
そろそろベース事案のバリエーションを増やしたいと思っているのだが。
家事調停の委員の認識について、アンケート結果を分析した論文を読んだ。
<抜き書き> 原則は同席調停を支持するのは二%にすぎず、原則は別席調停とする回答がむしろ七二%で、両者を組み合わせるが一八%であった。 P492*
研修については、現在の研修体制が十分だとする人が二二六名で七三%にのぼり、研修で学んだことが実際に役に立っているとの回答も二六九名で全体の八六%にのぼった。
(略)
研修のあり方の改善点については、あまり参加していない調停委員に参加を促す方法を講ずるべきだとか、裁判所主催の研修を増やしてほしい、一方的な講義方式だけでなく、参加型の双方向な研修にしてほしい、少人数のグループ研修やロールプレイも含めた実務研修を求める声などが比較的多かった。自由記載では、とくに新任の調停委員からはマニュアルのようなものを作成してほしいとの意見も寄せられた。
P492-493棚村政行「調停委員から見た家事調停の実情」棚瀬孝雄/豊田博昭/山城崇夫/大澤恒夫 編(2009)『小島武司先生古稀祝賀<続>権利実効化のための法政策と司法改革』(商事法務)483-505頁。
全青司のトレーニングで、臨床心理士の方が参加してくださった。
その方と、調停トレーニングは、カウンセリング技法と重なっているところもあるが、本質的に異なっているし、その違いを重視したいという話をした。
わたしが重要だと思う属性としては、
・治療的でないということ(調停は問題解決的、ないし成長支援的)
・2者間でなく3者間であるということ
・セッション数が少ないということ
・公正さの価値を重視すること
・問題のある人をソフトに排除するカウンセリングの負の側面への反対
といったところかなとおもう。
わたしは、カウンセラーにも様々なアプローチがあるが、日本で典型的な来談者中心療法よりも、認知行動療法やグループアプローチのほうが、調停技法と親和性が高いのではないかと感じている。
しかし、むしろ大事なのは、そういったカウンセリング技法の援用というよりも、調停では当事者を治療しないという目標設定の問題だとおもう。治療が必要な当事者には治療を勧め、下手に調停内で治療もどきをしないという節度が大切だ。そう考えると、カウンセラーとの協同のあり方として、技法を紹介してもらう以上に、適切なアセスメントの方法を共有することが大切になるだろう。
カウンセリング技法を中途半端に輸入することより、当事者の問題解決及び成長に役立つ話し合いの仕方はどのようなものであるかを考え、コミュニケーション技法の学習対象をむしろ限定化することのほうが大切なのではないか。
司法調停に関わっている人たちの多くが、同席調停に象徴されるメディエーション手法を「現実を知らない、海外の直輸入モデル」と認識しているのではないかと、わたしは感じている。
わたしが行っている調停技法トレーニングでは、同席を主としながら別席を否定しないし(例えば、ハーバードのMnookinは別席を行わないモデルを提唱している)、実際にトレーニングに参加して下さった司法調停関係者からは、さほど抵抗は受けないし、ほとんどの場合、有用だったと言ってもらっている。
ただ、現実問題として、同席調停に象徴されるメディエーション手法が、「現実を知らない、海外の直輸入モデル」という側面がないかと言えば、率直に言って、「ある」とおもう。
石山勝巳氏以来、司法調停の中にも細々とは言え同席調停の伝統はあるし、ADR法施行前後から少しずつ実践の成功例が出ているのも事実ではある。が、まだまだ熟度が低い。
ひとつは、民間調停の実践の中から学んでいくこと、もうひとつは、司法調停の蓄積から学んでいくことが大切ではないかとおもう。もちろん、海外の様々な理論や制度などについても、見落としているところが様々にあるに違いがないので、学び終わった気になっているのは良くないだろう。
難しい仕事だが、「もろい直輸入モデル」を、地道に有用なものに作り替えるのは、日本の伝統芸だとも思えるし、意味があると思っている。
わたしの最近の認識は、以上のようなものなので、”メディエーションを学んだ”と自称する人が、司法調停に対して、必要以上に批判的だったり、「教えてやろうか」という態度が出ていたりすると、とても違和感がある。
司法調停への批判に目をつぶれという意味ではない。司法調停への批判そのものも、佐々木吉男以来、あるいは事務的に堕した調停を「寒心に堪へない」と言った三宅正太郎以来の伝統がある。
司法調停の何が課題かを研究するのは、民間調停のマーケティングの観点からも重要だ。
ただし、司法調停では上から目線の決めつけが横行しているといったステレオタイプで決めつけることそのものは、まことに「寒心に堪へない」。
研修会の企画は2日間のものが多いのだが、近司連では昨年に続き、4日間の企画。
全体としては、3日目と4日目にあたるのが中級編の位置づけになる。
中級編が実施できると、倫理や合意文書作成のパートを扱えるし、基礎編の傾聴や課題の特定の復習もできるので、ひととおり学習した感じになる。
*
自主的な勉強会を重ねると、マンネリ化して、活動が雑になるという問題がある。
特に内輪だけでロールプレイを繰り返すと、ロールプレイで緊張することはなくなるのだが、技術が上達せず、変なベテラン意識だけが肥大化するという問題がある。
最近、外部からトレーナーとして呼ばれるということは、そういうものの掃除という意味もあるのかなという気がしてきている。
そういう状況になるのを防ぐには、外に向かってエネルギーを向けることが大事なのではないかと思う。例えば、部外者を勉強会に招くのも1つだろうし、外向けのイベントを準備するのもよいとおもう。
また、ひとりでしっかり文献を読んだりして、勉強を深めるのも大事だと思う。
非常に常識的な結論だが、それが、難しい。
参加者に恵まれて濃い内容の二日間だった。
近畿のADRに関わる司法書士も、再活性化ができそうな予感がした。
やはり、司法書士以外の参加者を認めていただいたことが良かったようにおもう。
また、少数だが実践をしている方の参加もあり、そういう発言が貴重だった。
しかし、一番は、9月の基礎編に初心者として参加して下さった方が、自分の問題として誠実に情熱的に向き合って下さったことかもしれない。こうした参加があると、トレーナー側としては達成感が大きい。
わたしとしては、まだまだ課題はある。
例えば、応諾要請についてのトレーニングは、センターの運営に関わっている方と、そうでない方の意味づけが違う。そうした配慮はもっとすべきだったように思う。
1日目
目的意識確認
傾聴復習-仕事をやめる友人の相談
倫理
課題の特定復習-二宮さんと藤沢さん
調停ロールプレイ(行列植木鉢)
2日目
調停フィッシュボウル
合意文書作成
応諾要請
調停ロールプレイ(不動産の持ち分がほしい)共同調停での実施
「同じ当事者役をやる人同士でロールプレイ前に作戦会議をする」のがよいということだが、なるほどとおもった。
ロールプレイで役作りを苦手な方がいたときにどうしたらよいかというのは、わたしにとって悩みの種だったので。
昨日の午前は、仲裁人協会の実務上の諸問題研究会。
「当事者に守秘義務はあるか」「当事者による調停人への不信(苦情相談、忌避)」などがテーマ。
実務論あり、法律論ありで、とても面白い。
スキル論だけでも、解釈論だけでも調停はできない。
しかし、大事なはずの問題なのに、十分に検討されていないものが実は多い。
少なくとも、実務家があまり意識せずに通り過ぎてしまっている論点を丁寧に掘り起こし、整理したい。
こうした地道な活動が民間調停の品質を上げ、司法調停にも影響を与えると思う。
夕方は、やはり仲裁人協会の調停技法勉強会。
こちらのテーマは、「イシューとアジェンダ」及び、公益施設建設をめぐる調停ロールプレイ。
扱いづらいテーマだったが、担当班の方が、かなり一生懸命準備していただいた。
参加者が多様なのと、かなり勉強されている方も参加されているので、ぜいたくな盛り上がりがある。
この勉強会を企画する前は、東京ではかえって勉強会がしづらいのではないかと思っていたが、やはり東京ならではの企画というものもありえるのだとわかった。
Learning LAB-人から始まる組織開発-: 出現する未来とデザイン思考
出現する未来とデザイン思考
Uプロセスというフレームがあります。MITのオットー・シャーマという人が
提唱しているもので
リーダーシップの発現や、
創造性の発現といったものの
創発のプロセスを図式化したものです。で、ダイアログが絡むのですが、
ダイアログが深めるプロセスだとすると
もう1つ、浮上させるプロセスがある。(略)
対話は3つのOpenを通して
Uの底に連れて行ってくれます。
でも、そっから形にして浮上させる過程が
ちゃんとあることが大事。
対話を深められるかということと、その先で浮上させられるか、特に後者には、デザインの力が大事になるという話が興味深い。
「問題解決」みたいな後者に注目しすぎると対話が深まらなくなるし、「受容と共感」「感情の反映」みたいなところで深みに引き込むことばかりに注力するのは弱者を分断し囲い込む道具にしかならないし。
ときどき、調停ロールプレイで、当事者役の「先輩」が調停人役の「後輩」に向かって、いまは・・と言うべきだなどと「指導」している場面が出くわすことがあるので、最近は、なるべくそういうことは避けて下さいと言うようにしている。
わたしは、こういう行動は、調停トレーニングの質を下げると考えている。
その「指導」の内容の正誤を問わずにだ。
それぞれが与えられている役割をしっかり演じきろうとうすることで見えてくるものが大切だと思う。
鈴木秀子(1999)『愛と癒しのコミュニオン』 (文春新書 (047))
飯田邦男さんから勧めてもらって読んでみた。
傾聴の方法について、かなり突っ込んで詳しく紹介している。
傾聴をどう教えるかということについて、アプローチが豊富だ。
「事実・影響・気持ち」に分けて伝えるといった、認知行動療法的、あるいはアサーショントレーニング的な方法も紹介されている。
個人的に気に入ったのは、「喧嘩とは、相手からエネルギーを奪おうとする行為なのだ」(P133)というくだり。自分にエネルギーがないと傾聴ができないという話の後に出てくる。
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: タバコ部屋と宴会とわたし
コミュニケーションを良くするというイメージが、「タバコ部屋を復活させよう」「宴会を復活させよう」という復活主義に陥っているという話が興味深い。
「部屋」のような環境を見直す視点や、仕事時間以外の時間の持つ意味を見直す視点自身は大切だと思うが、成長期へのノスタルジーは、シニア世代による現役世代への無責任なプレッシャーでしかないようにおもう。
中原淳, 金井壽宏(2009)『 リフレクティブ・マネジャー』 (光文社新書)
を買った。
小一の次男が、「大人の方が子供よりもかんたんなんだよ」、というから、また難しいことを言い出したと思ったが、「漢字で書くと」ということだった。
子どもによる子どものためのピア・メディエーションというものがある。
日本でもいくつかの取り組みがあるようだが、子どもの方が簡単、とも限らないようだ。
次回の調停技法勉強会では、それがテーマで準備していただいている。大変楽しみ。
わたしはシンクタンク出身で、しかも統計データの分析などの仕事を中心にしていた時期も長かったので、人前で話をするときに、ついついマクロなデータや規則そのもののような堅い情報を中心に組み立てたくなるという癖がある。
まぁ、根がまじめだから、という話でもある。
しかし、こういう話の仕方は、あまり魅力的ではない。
話し手側に映像が描けていないので、冷たい情報だけを伝達することになりがちである。
「わたしは、○○が大事だと思う」というメッセージの裏に、そう思うに至るような、具体的なエピソードを、できれば複数話すのがよいとおもう。
エピソードとは、誰々が、どこどこで、どういう事情で、このようなことをしたといった話でよい。
メッセージとエピソードをセットにして手持ちのネタとしておくとよいようにおもう。
わたしは、人前で話すのはいまだにそれほど得意だとは思っていないが、大分場数を与えてもらって、ある程度は「先発完投してゲームを作る」ことができるようになってきた。
人柄とか話術とかの問題と思い込んで、自分を責めたりせずに、誠実に伝えるところに目標を置くことが大事だと考えている。(そうは言っても、ウケは狙いたくなるので、それを我慢するのも必要なポイントだ。)
わたし自身、「エピソード主体で話す」という目標は、さほど達成できているとは思えない。
しかし、それを忘れる傾向があるので気をつけておこうとするだけでも、多少の進歩はあったように思う。
「争」という字は、棒を二つの手で引っ張り合っている様だそうだ。
また、浄(きよい)とか、静(しずか)のように、争という字を中に持ちながら、むしろ平和な意味の字にも転じているものもある。
調停ロールプレイの質を保つために、ロールプレイ内で、先輩が後輩を指導しないようにと以前に書いた。これ
世阿弥の風姿花伝に面白い一節があるのを知った。
よき所を知らねば、わろき所をもよしと思ふなり。さるほどに、年は行けども、能は上がらぬなり。これ、即ち、下手の心なり。されば、上手にだにも上慢あらば、能は下るべし。いはんや、叶はぬ上慢をや。よくよく公案して思へ。上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと工夫すべし。下手のよき所を取りて、上手の物数に入るる事、無上至極の理なり。人のわろき所を見るだにも、我が手本なり。いはんや、よき所をや。「稽古は強かれ、諍識はなかれ」とは、これなるべし。 世阿弥『風姿花伝』岩波文庫,p50
諍識というのは、慢心からでる争い心をいうのだそうだ。
10月30日が長男の誕生日で、プレゼントに『集英社版 学習漫画 日本の歴史』全22巻と、「人生ゲーム」を買った。
学習漫画は子どもの頃よく読んでいたのとは版が違うが、集英社版のにおいはなんとなく残っている感じがする。
熱心に読んでいると、とうちゃんは、自分が読みたかったから買ったのだと決めつけられてしまった。
自分がほしい物だからプレゼントになるのだ、などという理屈は通用しないようだ。
「人生ゲーム」もやってみたが、フリーターになると収入が少ない上に安定しないとか、微妙な設定がある。
ゴール近くには、世界一周旅行とか、宇宙旅行とかに行くというために大金を支払うというコマがあるが、実際には大病をするとか、事業に失敗するとか、そういうことを書けないので、かわりにそうなっているのかなぁとおもう。
家を買っておくとゴールでは買った5倍の価値になるとか、どことなく、古き良き昭和なにおいが残っている。