日弁連法務研究財団の、設立10周年記念シンポジウム<「法曹の質」の検証>を聞いてきた。
パネリストは、太田勝造先生、菅原郁夫先生、ダニエル・H・フット先生。
司法試験の合格者を増やすことになって、「弁護士の質が下がった」と言われることがあるけれど、その質って何だったのかを、一度立ち戻って考えようというもの。
途中で菅原先生が、「似たような考えのパネリストを呼びすぎたのでは」とおっしゃっていたが、確かに。
解釈学としての実定法の狭い知識だけが弁護士が仕事で使う基盤ではないだろうという話が出発点になっている話が多かった。
実務家弁護士としては、その通りと思う面と、そうは言ってもリーガリスティックな問題処理能力こそ自分たちの核の能力という思いが錯綜しているのではないだろうかと想像しながら聞いていた。
以前、フット先生がおっしゃっていたが、考え方の問題(あるいは考え方の貧しさの問題)にもうちょっと向き合う必要がありそうだと思う。
一番最後にシャンシャンで終わろうとしたときに、若い女性弁護士が、「多様な能力を持った新しい法曹というありがたいお話はよくわかったが、いったいその職場はどこにあるのだ?裁判官も検事も増やさないのだから裁判も増えないし、企業が法曹に職場を与えるようにはなっていないじゃないか?」という質問(もうちょっと上品な言い方だったかもしれないが)をされた。
それに対して、菅原先生が、以下の2点をおっしゃった。
①例えば料金体系ひとつとっても企業が裁判をするときの体系になっていて、他のニーズに応えられていない。端的に言えば、新しいビジネスモデルができていない。
②弁護士に職がないなどと言っても、世の中を見渡せば、弁護士に頼りたいのに頼れない人はまだまだたくさんいる。例えば、地方での公設事務所の経営がなりたっていることもひとつの証左だ。過払い問題という収益源があったからとも見られているが、弁護士が近くに行って初めて問題が見えたという面もある。弁護士に頼りたいのに頼れないというニーズを細かく掘り起こせば相当マーケットは広がるはずだ。
わたしはこの菅原先生のコメントにとても共感する。
プロボノ活動というのが、エリートで金持ちの免罪符や、すでに十分に成功している人の名誉職的なものではなく、手当てされていない不公正の現場に迫るツールになれば、マーケティング的な意味が出てくるのではないだろうか。
いくつかの公設事務所での活動のように黒字化するものもあれば、逆にどうやっても赤字にしかならない活動も明らかになるかもしれない。そのような場合にはなんらかの手当がなされるように、場合によっては立法につなげる活動していくことまで含めて、法律家の仕事として期待されているのではないかと。
でも、こうした考えは、法律家にとっても法学者にとってもそれほどメジャーな考え方なのではないのだろうな、ともおもう。
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津久井進の弁護士ノート 「法曹の質」 豊かな人間性って・・・
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