あまなう(和う/和ふ/甘なふ)
1 同意する。承知する。 2 甘んじて受け入れる。与えられたものに満足する。 3 人の心に合うようにする。機嫌をとる。
古語だが、広辞苑にも載っている。
谷川俊太郎(2002)『風穴をあける』草思社
のP58、P60に出てきて、なぜこのような美しい言葉が現代の日本語から失われたのかと言っている。
文庫。
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1 同意する。承知する。 2 甘んじて受け入れる。与えられたものに満足する。 3 人の心に合うようにする。機嫌をとる。
古語だが、広辞苑にも載っている。
谷川俊太郎(2002)『風穴をあける』草思社
のP58、P60に出てきて、なぜこのような美しい言葉が現代の日本語から失われたのかと言っている。
文庫。
一方が100万円請求している場合に、調停人として、何をどのように質問していくかが課題になる。
100万円の請求されている「根拠」を教えていただけませんか?
100万円の「請求理由」は何ですか?
100万円の「明細」を教えて下さい。
これらはいずれも法律家的な聞き方で、別にこういう質問をしたら間違いというわけではない。
しかし、最初から上記のように聞かないでもよいはず。例えば、以下のような質問も可能。
100万円の請求に至った「経緯」を少し教えていただけませんか?
100万円の請求をされた「ご事情」を教えていただけませんか?
100万円の請求をされようと思った「お気持ち」を教えていただけませんか?
同じようなことを聞いていて、結局は同じような答えになるのかもしれないが、微妙に違う。
その違いが大きいのではないかと思っている。
根拠や理由を聞かれると、最初から理屈と証拠で武装した答えをしなければならないが、経緯や気持ちを聞かれたら、率直に、これまで言い足りなかったストーリーを話しやすい。
調停技法は、みんな仲良くというムードみたいなものにすぎないとか、建前的な心がけを唱和するようなものだとか思われている向きもあるが、わたしは、論理的なものだと思っている。
さる方と「ADR士」という資格が、ADR法の2012年見直し時に入るだろうかという話をしていた。
ADR検討会の座長メモで、ADR士が将来的な課題とされているので、これが検討されるのはごく自然なことだ。
その方は、ADR士なんかができるとトレーニングの仕事が増えて(あなたにとって)良いのでは、という話をされたが、わたしは、ADR士という資格については、ADRの将来の命取りになる危険もあると思っているという話をした。
ADR士という制度を作るプラスの面としては、教育方法論が成熟化し、質的な向上が期待できる面がある。これはその通りだろう。話合いの進め方だけに特化して40時間位のトレーニングが必要とされ、大学院レベルの教育もいくつかある米国などの水準に比べると、日本で実務家が調停に臨む前に受ける教育はいかにも乏しい。その意味で、資格制度の導入が、教育プログラムの充実につながる可能性は否定できない。
しかし、食えない資格がまたひとつ増えるだけの可能性が非常に強い。そうなると、下手すれば分野そのものの死滅につながるおそれがある。イノベーションを阻害する危険も高い。資格合格のために必要とされる教育水準としても中途半端な内容にしかならないだろう。さらには、「態度」をどう査定するか、一度合格させた者の「態度」が維持される保証があるかという問題もある。勉強は必要だけど、勉強したからといって働ける場所はありませんという話になってしまうと、勉強しようと思う人自身がいなくなってしまう。
米国で、州レベルでは、フロリダをはじめとしていくつか資格的な制度があるが、全国レベルでは存在しないのも、下手な制度を作ることで、ADR発展を阻害するリスクを考えてのことだと思う。
やはり、わたしは、安易に資格をつくるより、教育内容そのものの研究や、教育プログラムを実務家に提供できるようにすることを先行させるべきだとおもう。
また、政策的には、個人を認証するだけでなく、教育機関を認証するアプローチもあり、後者も検討すべきだとおもう。
レビン小林久子編(2009)『新版 紛争管理論―さらなる充実と発展を求めて』(日本加除出版)
ようやく入手した。
5年前の前版とは、かなり内容が変わっている。
レビン先生が「愛から愛へ」と書かれた前版の論文は掲載されていないのは残念だが、レビン先生が新しく書き下ろした論文も入っている。
訳出された論文数も増えている。
例えば、「第8章 紛争における怒りと報復-帰属の役割」「第12章 自省による学習」「第16章 紛争解決研究のフロンティア」など。
「アメリカの調停は、公正さが確保されているか?されているとしたら、どのように?」という質問を受けた。
70年代頃の発生期は、社会運動としての性質が強く、そもそもより公正であることを求めての活動が中心で、金儲けの意図はほとんどなく、成功し実績を挙げた。
80年代からは弁護士が調停分野に参加するようになり、制度化も進む。現状では、多くの調停が弁護士代理人付きになってきており、当事者が自己権利のための情報に触れないという危険は少ない。また、米国では、公益事務所的なものも多く、調停機関向けの無料法律サービスがある場合もある。
但し、様々な分野に調停手法が導入された結果として、形骸化したお粗末な実務が行われている場合もあるという。
(例えば、以下の文献を参照。Erica L Fox, "Alone in the hallway: Challenges to effective self-representation in negotiation", Harv. Negot. L. Rev., 1996)
歴史的な文脈及び他の制度との関係性の中から見ていくのが大事だと思う。
BUFFALO 無線LANルータ AirStation ハイパワー WHR-HP-GN
上新電機@楽天
無線LANルーターを購入した。無事設置できてなにより。
近所に類似の電波が飛んでいるらしく、PCがルーターを発見できなかったりしたところがあったが、確かに導入で迷わないようにかなり工夫されている。
有償・訪問設定サービスというのもあり、いざとなったら頼ろうと思っていたが。
プリンターもUSB接続でなくLAN接続に変えたが、そのときはセキュリティソフトが悪さをしていた。
これで書斎以外でも仕事ができるようになった。
田中成明(1996)『現代社会と裁判―民事訴訟の位置と役割』 (弘文堂)
この本では、J・レスニックのADR批判が紹介されている。
「正義の女神が、目隠しをとっただけでなく、秤も捨て、剣だけをもち続けているようなものだと揶揄している。」(P133)
一つは調停人が複数の場合で、もう一つは当事者が多数の場合。
前者は、co-mediationの訳。後者は、共同訴訟からの類推からと思われる使われ方。
こういう基本的な用語が混乱している。
どう整理すべきだろう?
今年は例年の明治大学でではなく、神泉の行政書士会館だった。渋谷から歩くと遠い。
34人の参加だったが、応募はもう少し多かったらしく、事前に文献を読んでレポートを提出したり、面接を行ったりしている。
研修会の人数集めに四苦八苦している団体が多いが、東京都行政書士会はそうではないらしい。
6日間のプログラムなので、丁寧に進めることができ、やりやすい。
子どもが行きたがったので一緒に3D吹き替え版を見てきた。
どうも最近涙もろくなっているのか、結構たくさんの場面でホロホロとしてしまった。
妻が亡くなったから旅に出たというより、老人ホームに行きたくなかったから旅に出たのでないかと、長男がもっともな質問をしていた。
家の前で工事の人を殴ってケガさせた結果、なぜ老人ホームに行かなければならないのか、そういう判決だったのかという質問もされたが、たぶんそうなんだろうとおもったがよくわからない。
橋本治の小説。
ゴミ屋敷の住民の話である。
先月出たアジア法学会のシンポジウムで中国の弁護士が、ゴミ屋敷問題のようなものがあれば、中国なら人民調停が使われると思うと発言していた。
中国の人民調停は、当事者の申立がなくても、調停委員会の発意で事件として扱うことができる(おそろしい)仕組みらしい。
日本ではどうするか。その状況が前半で描写される。死ねばいいのよと呪いの声をあげつつ心療内科に通う近隣の住民がいたり、ワイドショーでとりあげ「困りますね」という一言で次の話題に移ったり、そのワイドショーを見て野次馬の自動車が近隣で渋滞を作り出したりという、喜劇か悲劇かよくわからない状況が、橋本治らしい過剰な丁寧さとしばしばの突然の飛躍によって描写される。
後半では、そのゴミ屋敷の主の一生が語られる。
わからない人物をわかろうとするためには、それ相応の構えがもとめられる。
おまえらの言っている「コミュニケーション」なんて、どの程度のものだ、という叫びのような小説だと思った。
中村芳彦先生が担当されているロイヤリング講義のうち、11/23から12/14までの4回分を一緒に担当させていただいた。
12/14は、日弁連のロイヤリング研究会から、ロースクールの教官の見学があった。
「課題の特定」を扱うということで企画した。
中村先生に講義をしていただいて、わたしは役者さん相手にデモをした。
学生さん達には4回掛かりでやっているので、多少は伝わるものもあったとおもう。
とっさのふるまいが難しいという実感や、そうは言っても学習すべき型があるといったコメントがあった。
見学の先生方にはどうかなぁ・・
ロースクールでのADR教育にもう少しまともに取り組んでいただけるようになるきっかけになればよいと思っているのだけれど。
12/15は、調停技法勉強会があり、テーマは「自主的紛争解決」という大きなもの。
具体的には、工事の音がうるさいという近隣紛争についての応諾要請のロールプレイと、兄と妹の相続争いの調停ロールプレイが中心に扱われたが、『調停のプロセス』からの文献のレビューもあり、なかなか盛りだくさんだった。
二つの事案は設定がよく作り込まれていて、実際の紛争の難しさをうまく表現している。
早稲田総研インターナショナル・コンフリクト・マネジメントセミナー:2010年度開講スケジュール|Quonb
わたしが担当するのは
■法律コース
【実践入門編】 ● 2010年5月14日(金)、15日(土)
【実践中級編】 ● 2010年6月25日(金)、26日(土)
です。
法律家でなくても参加できます。
info-conflict@w-int.jp
に連絡しておくと、申し込み開始時に教えていただけるようだ。
園尾隆司(2009)『民事訴訟・執行・破産の近現代史』弘文堂
著者は東京高裁の部総括判事。
江戸時代後期から現代に至る民事の手続法の歴史を書いている。
本格的な書物だが、実務家に読まれることを想定して書かれており、ストレートな記述で読みやすい。非常に勉強になる。
歴史の話だけでなく、比較法的な視点もあり、法動態学のテキストという趣の本。
司法省にとっては、その資質からみて、勧解吏は抱えなければならないほどの職種ではなく、また、このように急激に増減が生ずる勧解事件を常勤の吏員で処理することに疑問が生じたものと推測できる。 P126
勧解手続消滅の事情について、民事訴訟法制定という事情だけでなく、もう少し突っ込んだ事情として、「司法のリストラ」とでもいうべき状況を推測して書いている。
調停制度の政策的意義として、「急激に増減が生ずる事件を非常勤の調停委員で対応する」というところに求めているところも面白い。非常に当たり前な話なのだが、民訴の学者などからあまりそういう説明は聞かない。
大正期の調停立法についても、勧解の復活という視点での説明をしている。
ADRの一つである調停の期日に出頭しないことを理由に過料の制裁を科するのは、・・、江戸時代以来の考えを残す、異例な定めである。訴訟の当事者が本人尋問の呼出に応じなくても、過料その他の秩序罰を受けないこととの均衡も失する。 P270
静岡県司法書士会のADR関係者忘年会に参加してきた。
県内自治体の職員の方で、DV加害者への支援を行っている方から、活動を教えていただく。
暴力をふるいたくなった人が、とりあえずクールダウンするために、一人になるという練習(これをタイムアウト法という)をするという方法があるのだそうだ。
一種のソーシャルスキルトレーニングだとおもう。
家族療法でいう「システム」に、加害者(多くは男性)も取り込まれている。そこに働きかける、素朴だが自分で有効だと思える方法を自分の手でつかんでいくのだということだ。
DV加害者も、支援グループに属することで、別の方法をとれるようになる場合もあるという。
ただ、男性は一般に相談したがらないし、DV加害者支援という文脈ではなおさららしい。
調停と、この種の当事者支援グループが連携できたらすばらしいとおもう。
少しブログを休みます。
何ヶ月後か、もう少し先かはわかりませんが、いつか再開するでしょう。
また、お会い致しましょう。