沖縄の教会から帰還
はじめて、Tグループのトレーナー(ファシリテータ)を経験させていただきました。
感謝しております。という言葉の軽さに耐えられないほど、感謝しております。
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はじめて、Tグループのトレーナー(ファシリテータ)を経験させていただきました。
感謝しております。という言葉の軽さに耐えられないほど、感謝しております。
第1部では、オーストラリア人当事者の代理人として関わった著者の体験を元に、直接交渉、法律相談、民事調停、簡裁、地裁、高裁までの「迷宮」をさまよった記録を紹介。相手方は大手損保。
筆者の人物描写が面白く、かつ、納得感がある。あとがきに、裁判官や弁護士はもちろん、裁判所の書記官を含めた法曹関係者は公正で優秀だった、というまとめをしている。ところどころシニカルな指摘はあるにせよ、基本的に個人攻撃の視線はなく、むしろ構造的なブラックホールとして小額紛争という問題を記述している。
第2部では、法社会学研究者による訴訟行動調査やダニエル・フット先生の議論の紹介もあり、その文脈でADRが検討され、第1部での紛争も金融ADRのスキームで解決したかもしれないとまで言っている。
わたし自身の問題関心と非常に近く、興味深い著作だった。
平田オリザ『わかりあえないことから : コミュニケーション能力とは何か』(講談社・2012年)
コミュニケーション教育における、「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドについての明晰な指摘。
心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。
「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は、耳に心地よいけれど、そこには、心からわかりあう可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いていないだろうか。
P208
と、コミュニケーション教育の目標を、「異文化理解能力」に置く。ただし、西洋型の異文化を尊重するコミュニケーションも、結局は多数派にあわせる側面がでるからという実際上の処世技術に過ぎないという割り切りがある。
私たちは国際社会の中で、少なくとも少数派であるという自覚を持つ必要がある。また、そこで勝負するなら、多数派にあわせていかなければならない局面が多々出てくることも間違いない。ただそれは、多数派のコミュニケーションをマナーとして学べばいいのだと、これも学生たちには繰り返し伝えている。魂を売り渡すわけではない。相手に同化するわけでもない。 P147
わたしは、ここがいいなとおもった。
わたしにとって、昨日は授業が最後だった。
明日(12/22)の滋賀での司法書士会と土地家屋調査士会の合同イベントが、外向けのものとしては最後。
研修講師は以前ほどはやっていないが、そこそこお声がかかるのはありがたい限り。
自分の能力的にはあんまり引き受けすぎては迷惑をかけるだけだとおもうが。
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福岡に来てから重視しているのは、授業に力を入れること・・なかなか上手くならないが、エネルギーをかけると伝わるものもあるという感じはしてきた。
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今年の活動の中では、8月に渡米したことと、先日経験したTグループのトレーナーが、自分の中では大きなものだった。
年明けに出る本の他に、事例検討会について書いた論文も出る。他の学者からどのくらい相手にされるのかよくわからないところがあるが、自分が大事だと思ったテーマを育てる努力は引き続きやっていきたい。
加えていただいている労働審判利用者調査も、アウトプットする予定(メンバーで分担執筆した報告書)。いろいろあって、なかなかしんどいが、こうやって仕事ができることに感謝しつつ、なんとかかんとか取り組みたい。さらに、もう一本原稿締切もある。
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震災関連では結局ほとんどなにもできず。仲裁ADR法学会の連続公開シンポジウムも全く出席せず。
いろいろ心残りもあるが、気負いは捨てて、気合いは入れて、引き続きやっていきたいなと。
滋賀での土地家屋調査士会と司法書士会の合同イベントに参加させていただいた。
メインのイベントは、金魚鉢方式(フィッシュボール)の事例検討会。
事例提供者の方、金魚鉢の中の方、お疲れ様でした。
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主催者側なので自分に甘い評価なのかもしれないが、アイデアと準備のおかげで好企画のものになったのではないかと感じている。