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「調停」疑なきにしもあらず

兼子一教授発言: 戦争中に一般民事調停がつくられて、できるだけ広い範囲の事件を全部調停に持ち込めるようにした空気は非常にけっこうなことだという意見も考えられますが、私は、戦争中のあの意識というものには、国民は一致しなければいかぬのに国民同士でけんかするとは何ごとだ、全部簡単に片づけるから持って来いという意識が多分にあったので、あのときの考え方を今すぐ持ってこられては困ると思った。 P29 座談会、兼子一 他(1952)「「調停」をめぐる座談会 2 「調停」疑なきにしもあらず」『ジュリスト』20号 1952.10.15 26-31頁。(参加者:東大教授 兼子一、東京地裁判事 柳川真佐夫、弁護士  久米愛)

研究者の間では有名な座談会だが、実務家では読む人が少ないかも知れない。
「のびのびは 人の迷惑 国の損」という位置づけを捨てていない戦後調停は、戦中体制をひきずっていることは明らかであるが、戦後しばらくは、その点についての警戒心が強かったようである。
上記の兼子教授の発言はその代表的なものであるとおもわれる。

兼子一教授発言: これは一般に日本の裁判所のあり方にも関係するので、ことに第一審裁判所なんかについて日本の裁判所というのは、今まで裁判官が一人で全責任を負ってやる、人の調査に信頼しない、手足は使わないという考え方でしょう。訴訟の正式の審判は別にして非訟事件的なものにはある程度行政機関的運用を認めて、責任はなるほど裁判官が負うのだけれども相当調査官的なものを使って、それの調べたところなり、あるいはそれの意見によって裁判してもいいのだというふうなことが、もうちょっと機構として出て来ていいのじゃないかと思うのです。 P30

同じ座談会の、この発言もとても興味深い。

コメント (2)

入江様
毎日ブログを拝読させていただいております。
兼子一教授の非訟事件に関するご発言は現在の「筆界特定制度」を予見されているようにもとれます。
「のびのびは人の迷惑国の損」とは、全体主義に逆らうものに対する戒めでありかつそのようなものを顕在化させないための予防的なスローガンであったのではないかと推察されます。現代においてもこのような雰囲気が調停や裁判のなかにあるのでしようか。
現在土地家屋調査士ADRにとっての最大のライバルは(相手はライバルなどとは思ってもいないが)民事調停であると思います。民事調停の現状について調べてみる必要を感じました。
ありがとうございました。

ヱ:

コメントありがとうございます。

民間ADRと民事調停の比較の議論はもう少し必要だとわたしも思います。安さ以外にも裁判所の調停には長所がたくさんあるので、そこをきちんと見据えた議論が必要だと思っています。

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2009年08月19日 05:23に投稿されたエントリーのページです。

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