大澤真幸(2008)『逆接の民主主義 ――格闘する思想』角川書店・角川Oneテーマ21
討議と投票を主たる手段とする民主主義は、「偶有性(contingency)が認識の水準では自覚されているが行動の水準では否認されている」と言い、ここに現行の民主主義の欺瞞性があると言う。
わかりやすく言えば、「わかっちゃいるけどやめられない」のが現行の民主主義だと言うのだ。
かといって、古代アテネのように「くじ引き」を中心的手段とすることも難しいとすればどのような方法があるか。
大澤真幸は<媒介的第三者>が決め手になるという。
当事者は、媒介者に、己の事情、己の意見をわかりやすく説明し、伝えなくてはならない。媒介者は、その現前そのものによって、当事者にとっては、問う者として立ち現れるだろう。いや、実際にも、媒介者は、当事者に問わざるをえない。「それは、どういうこと? どうしてそう考えるの?」と。紛争当事者は、この意思決定のシステムの中に組み込まれることによって、先行的投射そのものを、ゼロから反復せざるをえなくなるのだ。
このシステムによって、紛争当事者の間に合意が成り立つだろう。紛争当事者たちは、委員会の決定(選択)を引き受けるだろう。
なぜか? 彼らは、それぞれ、媒介者との関係を通じて、それまで当然(必然)と信じていた規範的前提を--ほとんど「事実」のように不動のものと見なしていた前提を--、偶有的なものへの転じてしまっているからである。彼らは、自分の上に君臨していた第三者の審級が、言ってみれば詐欺師で、その超越的な場所を占めるに相応しくない偶有的なものであることを、ごく普通の常識人である媒介者を説得する過程で、逆にかえって、実感してしまうからである。
(中略)
だから、水平的な他者達の間の「合理的」な討議(だけ)ではなく、垂直的な他者(媒介者)との関係を組み入れることによって、民主主義は、真にその名に相応しいものとして再生するだろう。すなわち、それは、真に多様性を保証しうる政体として機能し始めるに違いない。(pp150-151)
正確に言うと、大澤真幸のこの構想では、各当事者に二人の媒介者とさらに別に決定を下す委員会を設置する、かなり重い手続がイメージされている。しかし、当事者が媒介者に自らの主張を語り直す過程を持つことで、その依拠している規範の相対化を可能にし、当事者が自分自身の将来のわからなさを再度引き受ける契機につなげられる点が核心だと言っているのだと思う。これは、ほとんど現代調停の原理そのものを述べているように思える。そして、この原理で構成されるアソシエーションを重層的に重ねることで、社会全体を構想する発想であるようだ。
文体が難しいのと、暴論のそしりを承知で社会状況にいろいろ言っているのが気になるが、上記の引用部分の考え方は参考になりそうだと思った。