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ポーカーフェースか、正直か

調停において、ポーカーフェースを決め込んで、どちらにも中立というスタンスに徹するべきか、ある程度自分の考えを言ったり、指示をだしたりしてもよいと考えるべきかという問題がある。

メディエーショントレーニングでは、ポーカーフェースで中立の役割を演じる方法や必要性をある程度教えるのだが、自分の考えを言ったり、指示をだしたりしてもよいかどうかについては明確な形でのガイドラインが記載されていない場合が多い。
もちろん、不公正な合意がなされそうな場合には、調停を打ち切ることを含めて「指示的」になるべきであるとされているが、問題はそこまで行かない程度の場合である。

わたしは状況次第であると思うし、「調停人としての正しい振る舞い」には一定以上の幅があると思っている。
大切なのは、「中立性」と「良く情報を得た決定」のバランスをいかにとるかということであり、そのようなジレンマ状況を調停人として正面から悩む姿勢であると思っている。

中立に話し合いの進行を助ける役割を演じられなければ、単にパターナリスティックな一方の代理人になってしまうか、独自の価値観に基づいた説教調停に陥ってしまう。
とはいえ、調停人の活動が、あまりに表層的な仲介に終始していれば、当事者が中身の議論をする妨げになるかもしれない。調停人が自己一致して話をすることは基本的に良い影響を与えるだろう。しかし、それは、調停人のエゴが制御されずに流出したというものではなく、当事者への問題解決のためのリソースとして提供される場合に限って許されるべきものだと思う。

結局どっちなんだという雑ぱくな質問をする前に、自分が当事者ならどう感じるかを考えるべきだろう。

コメント (2)

市ヶ尾小町:

「とはいえ、調停人の活動が、あまりに表層的な仲介に終始していれば、当事者が中身の議論をする妨げになるかもしれない。」

中立公正さに囚われすぎる余り、こういう事態に陥ることがありますね。経験あります。

「調停人が自己一致して話をすることは基本的に良い影響を与えるだろう。しかし、それは、調停人のエゴが制御されずに流出したというものではなく、当事者への問題解決のためのリソースとして提供される場合に限って許されるべきものだと思う。」

そのとおりだと思います。

現場でそれを実感するには調停人にも当事者にも度量というか、成長が必要なのではないかと思います。

自分が当事者ならどう感じるか、という物差しは常に忘れないようにしなくては、と自分に言い聞かせ。

ありがとうございます。

ヱ:

>中立公正さに囚われすぎる余り、こういう事態に陥ることがありますね。経験あります。

それはそれでよいとおもうんですけど。
当事者がすこしじれてくるくらい忠実に中立的に振る舞うということの価値があるはずなので。

>現場でそれを実感するには調停人にも当事者にも度量というか、成長が必要なのではないかと

米国の文献でも、「スキル」への過信をいましめる議論はよくみます。技法より考え方が大切なんだろうなと思います。もちろん、それを実現するための仕組みや手続に安心感があるということも大切であるはずですが。

実感のあるコメントをありがとうございます。

シンプルに考えることと、横着に結果を求めないことが結局は大切なのではないかと感じています。

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2008年08月21日 14:44に投稿されたエントリーのページです。

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