金原ひとみ(2009)『オートフィクション』 (集英社文庫)
たまには、小説を。
金原ひとみの文章の面白さは、東京新聞のコラムで知った。
直裁的な言葉がたくさん出て来るので、苦手な方がいるとおもう。わたしは、それはよいのだが、金原ひとみの小説には、自傷的な話が多く出てくるので、それが苦手なので少し敬遠していた。が、この本はとてもおもしろい。
・・しかし何故小林の依頼を受けてしまったのか、自分でも理解し難い。きっと、文章を書く時の私とは違う私、恐らく酔っぱらった拍子か何かに出てきた私が、私の事じゃないから、などと思い適当にいいですよ書きますよ、と答えてしまったに違いない。文章を書く時の私以外の私が受けた依頼の責任を、文章を書く時の私が追わなければならないというのも、妙な話だ。しかし、依頼を受けた時の私は私という他人だったので書けません、と言ったところで正気を失った人間だと思われるだけだ。私は正気を失っていない。それを証明するために生きていると言っても良い。しかし誰かに、あなた正気ですね。と一言で私の正気を肯定されたとしたら、私はきっと何か割り切れない思いを持つに違いない。日々、小説を書いたり、人と話したり、公の場に出る事により、私は周囲に正気を証明する。しかし、正常ですね正気ですねとあっさり太鼓判を押されたくはないのだ。全く何という矛盾。私の話や考えにはおおよそ矛盾がつきものだ。まあ恐らく、ほとんどの人がそうだろう。かといって、私は投げやりに「矛盾なんてどうでもいいでしょ」と思って生きているわけではない。矛盾が生じている事に不満や不安を感じているからこそ、私はこれほどまでに思い悩み、死んでいるのとそう変わらない生きた生活を送っているのだ。P47-48*
私はこれから駄目を極めるだろう。これからは駄目だけを求め続けるだろう。駄目。それは愚かかもしれない。でも、その愚かはきっと美しい。美しいという思い込みかもしれないが、いや、もう思い込みだと認めよう。それは私の思い込みだ。しかし私の思い込みを邪魔するな。駄目な人間は思い込むものだ。思い込むから、駄目なのだ。そして思い込みが強くなっていくにつれて、更に駄目になっていく。駄目とはそういう生き物だ。目に涙を溜めながら胸元に手を差し入れ、胸の肉を寄せた。Vネックのリブトップの胸元には私の谷間。駄目な人間は谷間を作るものだ。谷間を作るのに精一杯になるものだ。ぐいっ、ぐいっ、ともう一度寄せる。私の谷間は美しい。背中の肉も、アンダーバストの肉も、寄せる。胸元に豊満な肉が寄り集まり、私の素敵な谷間が出来上がる。私の谷間、皆がそこに埋もれればいい。皆が私の谷間を讃美すればいい。他の所はどうでもいい。私の顔とか髪とか足とか腕とか精神とか心とか魂とか、そんなものの尊重は望んでいない。だけど私の谷間だけは、絶対に軽蔑しないで侮辱しないで絶対に。そう。駄目な人間は谷間を重視するものだ。そうきっと、誰も私の谷間を笑わない。だから私は谷間を作る。もしも人が笑ったら? そうしたら私は笑い返す。若い女が笑えばただの嫉妬、と笑い返す。年増の女が笑えば強い嫉妬、と笑い返す。若い男が笑えば勃起してるくせに、と笑い返す。年増の男が笑えば舐めたいくせにと、笑い返す。駄目な人間がどうして谷間をつくるかって? 誰も自分の谷間だけは笑わないからだ。そして、笑われたとしても笑い返せるからだ。こういう、谷間の持つ暴力的な力を、欲しているから作るのだ。私は谷間を尊敬する。たとえば私の顔がブスだと言われたら私はムカつく。精神性が幼いと言われても、髪型がおかしいと言われても、二の腕が太いと言われても、私はムカつく。でも、谷間だけは誰に何と言われようが自信を持って言える。「私の谷間に文句でも?」と。だから私は、谷間を作る。
P147-148