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ADR研究の古典

ADRの文献は総じて英語のものの方が面白いが、日本語で書かれた古い文献も案外面白い。

1970年代のものでは、佐々木吉男(1974)『増補 民事調停の研究』(法律文化社)小山昇(1977)『民事調停法』(有斐閣)の二冊は非常に面白い。というか、面白いという言葉が畏れ多いほど、先生という存在が偉かったという威厳を感じさせるものだ。
佐々木先生のものは、批判的な実証研究であり、小山先生のものは教科書的である。

小山昇教授の論文集(小山昇(1991)『小山昇著作集第七巻 民事調停・和解の研究』(信山社))では、古代アテネのdiaitaと呼ばれる調停類似の制度や、フランスの調停法の歴史なども書かれている。

 ひとくちでいえば、戦前の調停制度の機能は上意下達の現象において見られたといってよいであろう。戦後、民主主義という言葉が氾濫した。民主的な教育が民主的に行われ、民主的に収集された情報が民主的に提供された。民主的であることは紛争処理における上意下達とは相容れない。いきおい、調停者は自分の人格と識見によって調停をせざるを得なくなった。しかしながら、染み着いた伝統的な倫理観(たとえば家族的構成社会の社会倫理)は一朝一夕には変らない。変えなければいけないと自信喪失した者が調停をすれば、いわゆる「マアマア調停」となる。変えることができない者が調停をすれば、上意に変わり自意を下達しようとする「説教調停」となる。調停の機能は、調停者の多様化に伴って、種々雑多なものになっていったということができよう。 P39

人は非を悟ったとき譲るものであるから、調停委員は当事者自身が自分の言ったことのなかに是と非を弁別するよう仕向けることが大切である。これが調停委員の活動のうちのもっとも重要なポイントで、かかる能力を有する調停委員が得られるかどうかによって、調停制度の発展または衰微が決まるといっても過言ではない。調停委員は、自分の価値観、自分の処世訓、自分の倫理、自分の人生観、自分の社会観などを当事者に押しつけてはならないし、そもそもそういうものを披瀝することすら余計なことである。 P57

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2008年08月02日 06:47に投稿されたエントリーのページです。

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