教育基本法のもともとの理念が、自由と平等だとすると、たしかに、自律的な自由というよりうじゃじゃけただらしなさが目に付くかもしれないし、格差社会ができあがってしまって平等性を素朴に追求できなくなっているのかもしれない。
しかし、自由と平等は、そうそう簡単に追求をあきらめるというような種類のものではないだろうとおもう。
今回の政府の改正案の本質は、そういう高い目的はいちおう維持するという形式は保ちつつ、要は、なんのための教育かという問題は一旦棚上げにした上で、達成可能な「目標」を追求できるように、教育行政に介入できるようにしたいということが、そのあらわな姿なのではないかとおもう。
森義朗なんかは「徳目」復活を第一に考えているのだろうけれど、そうしたものが復古する危険もさることながら、数値評価に基づく目標達成分析みたいな手法への素朴な信仰こそがおそろしいと思う。
目的を棚上げした目標追求は、結局、ニヒリズムにすぎないのではないか。
生涯教育を扱うなど、各論としては、改正に理があると思われるところもあるけれど、率直に言って、全体としてひどい出来だとおもう。
もし、代替とするなら、自由と平等の概念を発達させて、「自治」という理念を教育の目的に掲げることが可能かつ意義があるのではないかと考えている。
アソシエーションを作って活動できる能力とか、自分で発問できるようになることとか、社会システムの手続を実務レベルである程度知っておくこととか、いままでやられていなかったけれど大事なことというのがたくさんあるとおもう。
これまでが勤め人になる人をモデルにしていた教育だとすると、自営業的な人をモデルにしてはどうかという気がしている。
それにしても、反対するにも、共産党が作った列の後ろに並びたくないと思っているひとが、どう行動したらよいかわからないという状況も、なんとかならないのかなぁとおもう。