小泉義之[2003]『レヴィナス―何のために生きるのか』(NHK出版)
読書メモ:
何のために生きるのか。何ものかのために生きる。しかし、何ものかのために生きることを通して、自分のために生きる。しかし、自分のために生きることを通して他者のために生きる。しかし、他者のために生きることを通して人類のために生きる。ところで、人間は肉体の愛を通して子どもを生むことがある。そのことを通して、再び、他者のために生きる。そして、再び、人類のために生きる。ところで、人間は死ぬ。さらに再び、死ぬことを通して、他者のためと人類のために生きて死ぬ。総じて、奇妙な言い方に聞こえるだろうが、何のために生きるかといえば、死ぬために生きるのである。 p10
他者のために存在することは、子どもを生むために生きることであるといわれているのではない。肉体の愛において、他者のために存在することは、子どもを生むことであるといわれているのである。肉体の愛において子どもを生まぬ愛は、自分たちのために肉体を享楽することであり、それ以上でもそれ以下でもない。悪いことではないが、とりたてて良いことではない。二人のために生きているだけのことである。 ・・ 肉体の享楽に溺れるときに、別に善く生きる必要などない。善く生きることを目指す必要もない。レヴィナスはそんな野暮なことを主張しているのではない。愛さない人間も子どもを生まない人間もいる。当たり前のことだ。それは人間だけではなく、生物全般に起こっている、ごく自然なことだ。レヴィナスが言いたいのは、肉体の享楽に溺れるというまさに生物的な(生物学的な、ではない!)営みにおいて、肉体の良い使用法があるとすれば、子どもを生むことだけであるということなのだ。 その上で、もっと考える必要がある。子どもが生まれるなら、愛し合う者は言葉なしで肉体だけで他者を受肉させたことになる。言葉の受肉によるのではなく、肉体の愛を通して子どもを受肉させたことになる。ここにこそ受肉そのものの秘密が隠されているはずだ。考えるべきは、繁殖性とは何か、親とは何か、子どもとは何かということである。 pp87-88