石田日記: 11月22日(水)「希望格差」①努力しなくても報われる人(既得権)の存在→社会が停滞(やる気をそぐ)
②努力しても報われない人の存在 →社会の荒廃(絶望に陥る)
と、政府・社会は①、②をなくすことを目的としているが、ここ10年の経済改革は①を無くすことに主眼(既得権の打破)を置いてきたが、その代わり構造的に出現してきている②を放置してきたのではないか。
去年の夏に、Mostenという米国の著名な調停人の話を聞く機会があったが、彼もちょうど、中流層の普通の人の生活が痛んでいるというような話をしていた記憶があるが、その話とも通じる印象を持った。
悪いやつ探しについて、公共事業のごとく、次々に新しい対象を必要としているような印象があるけれど、それで社会がよくなるわけではないということはだれでも気づいているとおもう。
けれど、それに変わって、ゆっくりとでも取り組んでいくべきものは何かというものを見つける余裕が持てないということが問題なのかなと思う。
努力しても報われない人を、報われないままに放置しつつ、なんとなく「しつけ」だけ行き届かせるみたいな風潮が強くなってきていて、困る。
いしとびさんがおっしゃっているが、和民のバイトを育成することが公教育の目的になってしまってはいけないとおもう。
しつけのできていない一人の親としては、お前みたいな親がいるから、学校やなんかがしつけをしないといけなくなっているのだ、といわれるのは耳が痛いとは確かに思う。
しかし、育児にとって必要なのは、そのような正論ではなくて、「手足」なのだ。
今の時代にいかに育児が困難かは、さる、やんごとなきところへ嫁がれ、心を病んでいるお方が一身に体現しているようなところがある。
テーマは、サーバイブすることだ。