法学セミナーの谷口太規弁護士の連載、「ロー・アングル 公益弁護士論--法と社会のフィールドワーク」が面白い。
法律相談において、相談者の心情を受けとめ、真に求めるものを理解するためには、その人の人生そのものに触れようとする必要があると述べた。しかし、見ず知らずの他者の人生に触れようとすることは、正直とても怖いことだ。触れようとしたその人生はいつも滑らかなものとは限らない。法的紛争の現場では、むしろ、それはざらつき、ささくれだったものであることの方が多い。そして、私たちがそれを癒やせることは決して多くはない。それでも他者に触れようと試みるのはなぜか。それでも、他者と出会う「開かれた」場に身を置きたいと思うのはなぜなのか。 P67*
私たち弁護士が関与するのは紛争だ。紛争において、どちらかの当事者に全面的な正義があることはむしろ珍しい。しかし、私たちは「投機」する。一方当事者の側につき、その人たちの声を、込められた思いを信じ、精一杯代弁しようとする。「開かれた場」で偶然出逢った他者に自身を投げ出そうとする。それは「関係性への投機」だ。
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時に、「触れた」と思う瞬間がある。けれど、それはいつも逃げていく。Aさんが泣いた理由だけではない。Fさんはもう笑わず今日も傷つきながら誰かに怒っているかもしれない。S夫婦の場合には「鍵」がうまく見つかったが、見つからないことの方が圧倒的に多い。分からないことだらけだし、届かぬものだらけだ。「開かれた場」に身を置くことは、そうした本質的に分からぬ他者性と遭遇し続けるということだ。
P69谷口 太規「ロー・アングル 公益弁護士論--法と社会のフィールドワーク(7)分からぬもの/分かろうとすること」法学セミナー56巻4号(2011年)66-69頁