調停人の特性として、ある種の余裕のようなものがあるとよいのかなと感じることがある。
若い人が誠実に、汗をかきかきやっても案外成功するとおもうが(明治期の勧解は、学生上がりがいきなり担当させられていた場合が多かったらしい)、「徳望家」を得ようとしたという大正期以来の調停制度も理解できるところがある。
哲学者の三木清はこんなことを言っている。
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
三木清(1954)『人生論ノート』(新潮文庫),P22 ※1941年に書かれたもの。
自分が当事者ならば、幸福な人にぜひ調停をお願いしたいものだとおもう。