正月の読書は、ロビンソン・クルーソーだった。
デフォー著、吉田健一訳[1951]『ロビンソン漂流記』(新潮文庫)
原作は、1719年。
訳は吉田健一で、1951年。
1951年と言えば、朝鮮戦争勃発の翌年で、サンフランシスコ平和条約の年。
世間が終戦直後の動乱にあるときに、こういう小説を引きこもって翻訳していた吉田健一って、すてき。
あとがきで吉田健一も書いている通り、大人が読んで、極めて面白い物語だ。
限界的な状況にあっての、心理状態の動きがリアルで、途中で病気になってはじめて、宗教心に目覚め、とても敬虔なキリスト教徒に変わっていくのだが、その様が面白い。
決して主人公は気持ちの良い人物というふうには描かれていない。
むしろ、周りの人たちに助けられているのに、そのありがたさをあまり解らず、ぼんやりとした冒険心で出かけた結果、とんでもない目に合うのを繰り返している愚かな人物と言ってもよい。(・・このあたり、ちょっと他人事と思えない)
無人島で生き残っていくだけあって、非常に合理的に粘り強く行動しているのだが、その一方で、神秘的なものに対する敬虔な感情を行動に生かしていくところが増えてくる。合理主義と神秘主義が奇妙に調和していく。
このことは、我々の生涯で我々を襲う危険について見られる、神の慈悲というものに私が最初に気付いた頃に、よく考えたことに対して再び私の反省を促した。我々が何も知らないうちに、何と不思議な具合に危険から救われていることか、我々が何事かについて迷っている時に、ある一つの方策を取ることに決めようとし、道理も、我々自身の気持ちも、場合によっては仕事の都合から言っても、そうするほうがいいように思えるにもかかわらず、何か解らない隠微な予感が、どういうわけか起こって来て、我々に反対のことをするように命じ、後になってみると、もし我々が初めの気持ちに従って行動していたならば、我々は破滅するところだったことが明らかになるというのは、これはどういうことなのか、そのようなことを考えているうちに、私はやがて、この内密の声を聞いた時は必ずそれに従うということを、何か決める場合の鉄則にするに至った。私はただその声を聞いたということだけで、他に理由を求めなかった。 pp201-202
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最近、光文社古典文庫でミルの『自由論』を訳した、山岡洋一氏が、吉田健一訳を名訳だと評している。
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ロビンソン・クルーソーの実在のモデルと言われるアレクサンダー・セルカークが4年ほど過ごしたと言われる島を探検した日本人のブログ。
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